サルア君、アニメに出る(2期9話)

第9話「死の教師たち」

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 初手、ラポワントの後ろ姿でさっそく大ダメージを負ってしまった。まさかお兄ちゃんのおぐしが背の半ばほどにもあり、しかもあのように結わえられているなど誰が想像しよう。
 自分自身でも理由は分からないながら、お兄ちゃんが印象よりもずっと髪が長く、そしてさりげなく示された髪を整えている事実にめちゃくちゃ動揺させられた。てっきり肩のあたりまでの長さだと思っていたし、蓬髪ではないにせよただ流しているだけとばかり。
 草河先生が一枚噛んでいるのか、アニメのほうで改めてデザインした結果なのか……。アニメ公式サイトのキャラクター紹介を見ると、ラポワントの顔立ちはファンブック表紙イラストよりもツリ眉タレ目である。アニメ用にデザインを起こすにあたり、サルアとラポワントに外見的な共通点を作ったことがうかがえるので、ラポワントの髪形もアニメーターさんのお力と見るが宜しかろうか。とはいえ草河先生のことだから最初の時点ですでにそのようにデザインしていたとしてもまったくおかしくない。
 原作によれば、ラポワントの外見は以下のように描写されている。「冷たい目だった。黒く、動きのない瞳。背が高く、がっしりした体格は、鍛え上げられたものというより、年相応に太りはじめたためだというようにマジクには見えた。(背約者[下]p99)」
 挿絵にあるのも剣を持った手のみであり、顔は出てこなかった。それがファンブックで顔が描かれ、アニメで声がついたのはもちろん後ろ姿が出たことで髪形まで判明するのは質量が増大した趣きがある。弟は弟で原作にないアニメ独自の衣装まで着用するからな……。なんなんだいったい。
 また、重厚さや秩序を旨とする人物というイメージのあったラポワントは、小西克幸さんが演じたことで繊細さ、几帳面さを感じさせる造形になったと思う。端正なたたずまいと眉目すぐれた容貌、そして心にしみいるもの柔らかな声で黄塵けむる聖堂に立ち、ありがたい神の教えを朗々と説く教師長よ……。
 ファンブック表紙の謎の人物が画集でラポワントだと明かされたとき、まだその気(その気?)のなかったわたしは、愚かにも「なんでわざわざそんなことを」と首をかしげたものである。サルアが兄に対し、劣等感、愛着、反発、甘え、尊敬、認めてもらいたいという思い、などなどが複雑に組み合わさった感情を抱いているのは文面からうかがい知れるにもかかわらず。
 サルアが根の深いブラコンなのは兄の造作のせいではない。が、ラポワントをああ描くことで際立つものがある。草河先生の「解像度」に感服するばかりだ。
 まあこのように小難しく考えずとも、意図としてはあくまで意外性、笑いどころだったのかもしれぬ。

 にしても、ラポワントはなぜ髪を長く伸ばしたうえであまり実用的でない結わえかたをしているのか。キエサルヒマは現代日本に比して、成人男性の長髪にさしたる意味はないように見受けられる。つまり、ラポワントがとりわけ洒落者だとかそういうことはなさそうだ。ただ、《塔》の頭髪規定をみるに、やはりキエサルヒマでも「髪を伸ばす」は外見に気を払っているという意味合いは有していると思われる。
 身嗜みに無頓着だから伸ばしているというのは、もっと違うだろう。名家の当主、そして教師長という役職柄、来客を出迎える機会は多かったようだし、神殿庁を取りしきる責任ある立場に就いてもいる。おまけにアニメでは、信徒らの前で説法する場面まで描かれた。外見を整える必要には、人並み以上に駆られたはずである。
 キムラック市には産業も通商もない。神殿街では家どうしの権力争いぐらいしかやることがなさそうだとわたしは勝手に考えており、家柄にふさわしい身なりや振る舞いはそれこそ重要視されるだろう。そうすると、サルアのチンピラでしかない言葉づかいや行動もさらに趣きが増すというものだ。
 チャイルドマンのようにただ束ねるのでもなく、かといって無造作に垂らしもしない。また過度に伊達なほうへ傾くのとも違う髪形が、あの肩を過ぎたあたりで髪を結わえるものだったのではなかろうか。
 気になるのは、キムラックは女神の黄塵が充満しているので髪に砂が絡まるのは結構たいへんなんじゃないかという点だ。住人も頭巾や帽子をかぶるなり、布を巻くなりしているような土地なのに、ラポワントはどういうわけか髪を長く伸ばしている。――と思うものの、特別な手入れをせずともあのキューティクルウェーブヘアを維持していても不自然ではないな。神を信じる教師は無欠であるからして。
 以上のような点から考えられる答えはただひとつ、すなわち、ラポワントには長い髪が似合っているから、もっといえば美しいからだ。これしかない。

 

 ボルカンの台詞で否定的ではないものの気になった点がふたつ。
 まず地人兄弟たちは主人公一行、および人間種族に興味がないし無関係なことが重要な点だとわたしは思っていたので、ボルカンがサルアのことを覚えていたのは少々ひっかかるものがあった。無関係な人間、物体は舞台にいてはいけない。無能力者は、非魔術士はタフレムにいてはいけない、子供の産めない人間はキムラックにいてはいけない。相手に喜ばれないプレゼントは贈ってはならない。本当に?
 とはいえサルアの姿を認めたボルカンが意外な声を上げるというのは、むしろ自然な変更の範疇だ。
 もうひとつがクリーオウとの取っ組み合いで「弟に何をする!」とドーチンを心配する台詞である。クリーオウがマジクに対して言うような、ガキ大将、いじめっ子が自分の所有物に手を出されたときの部類だと考えれば、「ボルカンはそんなこと言わない」とまでは一蹴できまい。さておき、ボルカンが口にするにはやや違和感が残る……のだが、これはラポワントの「弟は渡せない」の前振りなのだろう。

 

 クリーオウがボルカンの上にしりもちをついていたのは「けっ」という感想になった。本作の場合は強調されたものではなかったとはいえ「若い女性の身体が触れる」描写をコミカルなものとして素朴に出してくるのは現代日本の駄目な点のひとつ。

 

「俺の兄貴の家だって言ってんだろーが!」

 しつこいほど「兄貴の家」と繰り返していたのに、クリーオウの台詞で実家とは関係ないという建前が剥がれ落ち、なんだかんだ言いながら自分の家だと思っている本音が出てくる原作。実家を出ており独立しようという気概が強いスタジオディーン版。このニュアンスの移り変わりが心にしみる。一言であらわせば、そう、LOVE……。
 その変化によって、原作では怒ってわめきちらしていた台詞が呆れた様子のものになっている。
 サルアたちが邸宅を見ている物陰は、門柱だったらいいなあ。よそのお宅の壁だとなんか狭苦しいし。

 

「一応、俺も神官なんだけどな」
「であるのになんと愚かな。だがお前はいつだって愚か者だ」

 玄関ホールの絨毯は、書斎に敷かれていた例の年代物のそれではなかろうか。
 サルアとラポワントの会話、マジクとラポワントの会話というふたつのシーンを手早くまとめている。省略がいつもこれくらいの手際ならいいのだが。
 出迎えたお兄ちゃんを見る顔が一瞬びっくりした表情なのはどうしてですか? すぐに原作曰くの神妙な面持ちにはなってましたけど、というかアニメのサルア君は一瞬だけ「素」の感情を見せるカットが多すぎませんか? どういうことなんですか? そういうことなんですか???

 サルアがいつも愚か者だったというのは、造反を目論んだ以外にも、たとえば死の教師となることも含まれていたのではと思う。ラポワントは立場上、死の教師の実態を知っていただろうし、弟がその道を選ぶのは反対したに違いない。あとはほら、屋根の上にのぼって降りられなくなってべそかいたとかサルア君ご幼少のみぎりそういうことをやってそう。

 

「死の教師になるまではここにいたのさ」

 ミ゛ャ゛ッ゛(悲鳴)。
 ここにいた、という素っ気なささえ覚える単刀直入な言い回しにやられてしまった。グエー(呻吟)。
 すでに原作「狼」でサルアは部屋をわざと散らかしているらしいことがほのめかされている。実家の私室もそうであろうと推察され、地上部分と正反対の徹底的に整理整頓された地下室がそれを裏付ける。つまり散らかりよう……というかそれ通り越していろいろ壊滅した様相を呈した私室は反抗心の表れと見るがよろしかろう。青春の部屋、という呼称が出てくるのも道理だ。
 それが、絵の具で汚れた床と壁、積まれたキャンバス、部屋の中央に鎮座したハープと芸術寄りに。壁に立てかけてあるのはリュートっぽい。がらんどうなところからして、実家を出る際に私物だけを持っていき、絵や楽器は置き去りにしていったのかもしれない。
 名家のはみだし者だった少年時代に芸術に活路を見出そうとしていたみたいになってるんですが? それでも「剣がたいへんお得意」と評判が立つほどなんですか? できることとやりたいことがバラバラなんですか? 死の教師となって家を出ていくときに熱中した証を全部置いていったんですか? お兄ちゃんは楽器も絵も保管してたんですか? ミ゛ャ゛ッ゛(悲鳴)(2回目)。

 

「目立つ傘を差してきたものだな」

 この台詞のあとでカーロッタの剣をアップにしているので、意図としてはラポワントの皮肉ということになろうか。
 階段に腰かけるという普段ならば絶対しないであろう行儀の悪いふるまいをするお兄ちゃん……。
 わかっている、と言いはしても「即座に捕縛してそちらに引き渡す」とは続けなかったお兄ちゃん……。
 その代わりに「弟は渡せない」と言ったお兄ちゃん……。
 本作はサルアがブラコン炸裂させたキャラクターにならなかった代わりに、ラポワントの弟に対する愛情が明確に描かれた印象がある。
 彼はその姿かたち、説教する声音も含めた立ち居振る舞い、さらには弟を思いやる心ばえも美しい。そして美しいばかりで実に空虚だ。割り振られた尺の短さゆえに、ということもあろうが、ラポワントが苛立ったり動揺する様子はオミットされている。本来ならば人物像の奥行きが減じられてしまっていると評すべきかもしれない。しかし、サルアが根の深いブラコンであることを思うとその空虚さはむしろ効果的にさえなっている。サルアがいかにラポワントの一部分だけを見ているかというようにも読めるのだ。

 原作で、マジクから魔術士が詩聖の間に入ったと聞かされたラポワントは目に見えて動揺する。だがサルアの方を振り返ったときにはすっかり冷静さを取り戻し、サルアがなにを言おうと動じた素振りは見せない。マジクらが部屋を出るときに事態を把握できていない困惑の声を漏らし、そのつぶやきをマジクだけが耳にする。

 つまり……弟の前でだけは反射的に完璧超人なお兄ちゃんとしてのふるまいを?????

 ソリュード邸での一連のシーンは、要素をかなり切り詰めているため、サルアとラポワントの会話も、お互いが台詞を発しているだけで掛け合いをやっているという趣はない(よもや、アフレコも別録りだったりするのでは?)。そのことも、さながらサルアが兄を空虚で美しい偶像と化してしまっているように感じられ、わたしは好もしいとすら感じた。

 シーンの順番を時系列に沿って並べたことで、ラポワントがめったぎりにされている間、サルアが呑気に剣の講釈を垂れていたことがわかる結果になっており、うめかざるをえない。講釈は端折られているしラポワントの亡骸もそんなにぼろぼろではないけれどもそこはそれ、心の目で見よう。

 

 改めて思ったが、青春の部屋及び地下室のシーンはわりとやることが多い。サルアとクリーオウの掛け合い(サルア君、クリーオウとしゃべるの結構楽しんでるよね)、魔剣なるものについての講釈、キリランシェロの名、マジクへの説教。
 くわえて、メッチェンとの合流もここでこなしている。
 本作は、多少会話の流れが不自然になってでも原作の要点をなんとか入れこもうと腐心しているのがうかがえる。わたしの好みとしては、ほかの全部を間引いてでも描くべきことをどれかひとつに絞ったほうがよかったと思う。極端な話、マジクがオーフェンへの屈託をサルアの説教なしに乗り越えると描いてもそれはそれで構わないのだ。いずれにしろなにかしら瑕疵は生まれるにしても。

 

 ガラスの剣について「あれは重いし重心がよくない」と述べていたメッチェンが、「これでしょ」とガラスの剣を差し出すのをどう見ようか。のちにメッチェンがサルアとくっつくのを考えれば、こういう描写はまあ入るよな。

 このカットは、ガラスの剣を持つメッチェンの首から下、つまり胸部だけを映しており、前述のクリーオウと合わせて「そういう映しかたはこのシリーズではやめてほしい」と感じた。秋田作品では、女の身体に向ける視線の暴力性、ひいては「他者へ向ける視線は、どうみなすか/認識するかの暴力を伴う」と初期から描写されているからして。

 

 槍を投擲するときの咆哮が「腹から声が出てる」って感じで実によい……。マジクが硬直したのは大声のせいだったんじゃないかという迫力だ。これだけ響き渡る声なら演説も問題なさそうですね。いや、ちょっと待ってください「鋏」の罵り合いもこんな迫力だったんじゃないですか? やばくないですか??? というかもう下妻さんにサルアの台詞をぜんぶ朗読してほしいくらいなんですが? でもお芝居と朗読は違うものだからな……。
 槍を抜こうと歩み寄るカットからして、神官兵の靴はブーツタイプのようだ。
 壁に刺さった槍を抜くカットが手の芝居なのは嬉しいですね。わたしの中では勝手にサルアは手のきれいな男ということになってるので。……あらためて思うがわたしはサルアについて勝手に決めていることが多すぎるな。

 兄の遺体を前に呻くサルアの顔、本エピソードの中でもひときわ力の入った「画」だったので「あ~~~!!百点、百点満点です!!」とわめくことになった。銅鑼があったら打ち鳴らしながらご近所中を走り回っていたかもしれない。我が家に銅鑼がなくて本当によかった。

 

(初出・2021年3月31日。加筆修正のうえ投稿)