サルア君はアニメに出ないが(アーバンラマ編感想)

 さる2022年。6月に「TRIGUN」、9月に「るろうに剣心」の新たなアニメ制作が発表され、わたしは「ここにわれらがグロ魔術士どのがいたら、90年代不殺主人公が揃い踏みだったのになあ。タイミングが早すぎた」などと暢気なことを言っていた。
 そして「るろ剣」発表の数日後、本当に東部編のアニメ化が発表されてしまった。嘘だろ。

 思い返せば、プレ編を強く押し出しているわりにコルゴンにだけ声がついていなかったり、ラモニロックの本名が明かされたり(視聴時は話をまとめるのすらできていないのにそんなことやってる場合かと思った)、妙な点はいくつかあった。また、もの柔らかな声質が特徴とはいえ、佐々木望をアスラリエル役にあてるのも不可解だった。なるほど東部編のアニメ化のためだったのかと納得はする。納得はするがなんでこんなことに。
 単なる視聴者が利益を気にするのはおかしな話とはいえ、2期以降はグッズも出ていない、コラボイベントのたぐいもない、という状況でなぜと首をかしげたくはなる。この出来ではBlu-rayの売り上げとて芳しくなかろうし。
 完全な想像でものをいうと、「我が呼び声に応えよ獣」から「我が聖域に開け扉」までを4クールで制作するという企画なのだろう。制作陣も声優も放映枠も押さえてしまったからには利益が出なくても作らざるを得ないとか、そういう世知辛い状況があるのかもしれない。これはただの想像だし、そもそも売り上げのよしあしや制作の背景など視聴者には本来無関係の話であって、よけいなお世話というものだ。

 いざ放映が始まっても視聴するかどうかはかなり迷った。本作にネガティブな感情はさほどない。それでも1期・2期は見ていてくさくさした気持ちにさせられる出来だったし、2期最終回を見たときは「仮に続きがあってもこれ以上はつきあいきれない」というのが率直な感想だった。
 「見るか……」と腰を上げる気になったのは、「意外とまともだ」という感想が聞こえてきたのと、エンディングにサルアがいるという怪情報があったからだ。四半世紀前、つまり1998年、1999年に放映されていてもおかしくないような雰囲気の作風だし、おそらくエンディングの映像は1期・2期からのよりぬきカットなのだろう。さてサルアはどこのカットが使われているのかな、と気楽に構えていたらまさかの新規カットだった。嘘だろ。
 驚くべきは、他の絵は原作挿絵など既存のイラストをアニメ用に起こしたものが多いのに、サルア(と死の教師のみなさん)はわざわざ新しく描き下ろされているということだ。もちろんサルアのイラストで使えるものは多くはないし、その貴重なひとつは1期エンディングですでに使われている。それでもわざわざの新規カット。しかもとてもかわいい。これはありがとうございますとお礼を言わなければならない。ありがとうございます。
 原作イラストのトレースとは異なることのなにが嬉しいって、描いた人間の意志が宿っていることだ。このサルアは、ここにしかいないサルアなのだ。新しいサルアが見られてとても嬉しい。


 「ま、まともだ……」という反応を知りつつ、実は「またまた~」とヘラついた態度で視聴を始めた。いざ実物を目にしたら本当にまともだったので驚いた。依然、出来はよろしくはない。それでも「見られる」作りの回が少なかった1期・2期からすれば予想外の改善ぶりだ。
 あまりにまともなので、「瀕死のロッテーシャをそういうふうに担いで大丈夫か」とか細かいことも気軽に口に出せるようになった。以前だと、ちょっとしたつっこみでも真剣に不満を述べていると受け取られかねないと思えたので。
 長期シリーズは作られる間にこなれていくことがある。「1期はかなり悪かったがさて2期は」と構えていたところに出てきた2期は1期を下回るまずさ。原作の西部編は「主人公であるオーフェンが、探していた姉アザリーと再会する。その過程で自分自身の過去の葛藤に蹴りをつける」という、わかりやすい筋を見出せる。であるのにこのありさまでは東部編はとてもとても、と受け止めていたし好意的に評価したくはある……のだが、「出来はさておき、1クール通してまともに見られる回ばかりだった。進歩している」というのは褒め言葉とはいわない。

 「我が夢に沈め楽園」は上下巻の原作を二回に収めている。同じ話数でも原作は一冊だった2期「我が遺志を伝えよ魔王」よりもかなり強引だ。それでも「へなちょこだなあ」と思わざるを得なかった「魔王」に比べれば、「楽園」は「荒っぽくはあっても、まあ見られる」と感じた。
 1期・2期の欠点のひとつは、おおまかには原作の展開をなぞりながら、クライマックスになると突然進路を切り替えて、とんちんかんな描写を始めることにある。「魔王」の場合は、「危機に際し、仲間は大事だという態度をあらわにするオーフェン」とか「いかにも悪役という言動のキリングドール」とかだ。そうしたわかりやすい、単純化された様式をクライマックスとするなら、受け手の感情を盛り上げるに相応しい導線を引くべきで、原作のなぞり書きはやめたほうがいい。原作の導線は別のところへ向かっているからだ。
 尺に合わせての省略は理解できるが、その結果どう決着させるかに困って単純なクライマックスにしてしまい、とんちんかんなものになる。そしてなぜ困るかといえば「映像化という翻案作業を通してなにを表現したいのか」の確たるコンセプトを持たないからではないか? これまでの本作にはそういう印象を持つ。
 むりやり「楽園」を二回に収めるのなら、話をもっと大胆に変更するか、いっそ省略してもよかったのではと思った。しかし省いたら省いたで、全12話で原作3冊をこなすことになる。その場合は間延びした内容になっていたかもしれない。また、キャスティングを考えると、ひょっとしたら当初はシーナの描写をもっと入れるつもりだったのだろうか。

 3期は一話ごとの作りが改善され、またライアンをキー・キャラクターに据えたことでか、1クール通しても破綻のないまとまった仕上がりになっていたと感じる。とはいえ、やはり「わかりやすく、単純化した表現」は本作の足を大きく引っ張っている。
 ライアンについても、5話で自分自身の目的を明らかにするシーン、8話で日記を読むシーンなどは演じる榎木淳弥の芝居がいいだけに、もっと複雑で奥行きある表現ができただろうと思う。これは2期のネイムにも通じることだ。
 負わされた務め、嵌められた枷のもたらす苦痛に苛まれる人間が、それまでの穏やかな態度を捨ててさながら「狂っている」かのように見える場面を、「目を見開いた表情の絵/激しい感情を乗せた声」で見せればそれで事足りるのか?
 2期「我が聖都を塗らせ血涙」は、全体的に迷走していた2期の中ではまだしもマシではあれど、それでもあまりにもしょぼくれた出来だった。ネイムを陳腐な「狂信者」と描写していたこともあり、画面に危機感というものがまるでない。視聴していた当時は、「ここまで単純化しないと、破綻せずに作るのが難しいのだろうか」とさえ思った。
 省略や単純化が一概に悪手かといえばそれは違う。2期でもラポワントの場合は、限られた時間の中で彼のストーリー上の役割をはっきりさせる効果があり、描写を簡略にすることで原作とは違った味わいを生じさせていると感じた。しかしそれはラポワントが脇役だからいえることで、テーマに関わる重要な役どころであるネイムやライアンは、単純な描写が悪い方向に作用していた。
 1期・2期にしろ3期にしろ、ありがちで型通りの描写を用いてしまう本作については「1998年、1999年に放映されたのが、つまり夕方午後5時に放映するものとして制作されたのがこれだったら、わたしはこの作品を受け入れられたかもしれない」と思う。現時点で、わたしが本作を好意的に言おうとしたらそうなる。

 ライアンの死を前に涙するクリーオウも陳腐な描写ではあるだろう。原作において彼女は自分自身の行動が生んだ思わぬ結果におそれおののき、深く傷つけられている。「賢くなれば、誰も傷つけずに我を通せる」という反論は挫かれた。
 これをよくない描写だと片づけてしまうのもやや乱暴な見方では、といまのところはまだ迷う。重点的にライアンを描写することで受け手に登場人物への感情移入を発生させ、最後にクリーオウの涙を描写することで悲しみを演出している。陳腐で型通りのクライマックスであっても、そこに至る導線をきちんと引いており、これまでの本作を考えれば作り手の意図が的確に機能し、また表現できている。

 型通りといえば、2話の温泉シーン(温泉シーンとは言っていない)、6話のシャワーシーンときて8話のスネークグリーンに締められるクリーオウからは、「若い女性の登場人物はエロの表象として扱うべきもの」というスタッフの頭の固さを邪推してしまう。「オーフェン」シリーズに限らず、秋田作品はエロと暴力が表裏一体のものとして登場するのが特徴だ。こうしてありがちな描写をされると場違いに見える。
 わたしは「我が絶望つつめ緑」をクリーオウが侵害される話だと受け止めており、彼女がエロを表現するための単純な表象として粗略に用いられるのは、むしろ「解釈一致」ですらある。傷つけることこそがドラマだというなら、それこそ陳腐きわまりないが。

 ところで、3期と4期の切り替わるころからクリーオウを演じる大久保瑠美のインタビューが複数出てきた。クリーオウ個人のドラマが本格的に描かれるのは東部編であることを考えるとおかしくないことにしても、意外さを感じた。クリーオウは本作の設計ミスで大きく割を食ったキャラクターだと以前言ったが、もしかしたら作っている側はわたしが思っているよりもちゃんと考えているのかもしれない。
 さておき、3年前から「だれか大久保さんにサルアの話を聞いてくれ、いや聞いてくださいお願いします!」と喚いていた身ゆえ、待望の言及が出てきたことに深い感慨の念がある。

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