サルア君、アニメに出る(2期最終話)

第11話(最終話)「我が神に弓ひけ背約者」

 「で、できが悪い!」
 最終回を見てまず口から出てきた感想がこれだった。ほかに言うべきことも特にない。スタジオディーン版についての不満点はすでに言ってきたし、あえて繰り返さずともよいだろう。
 感想文を書こうとしても内容がまとまらないまま、一年半もほったらかしにしてきてしまった。
 そこへ2022年9月26日、よもやの続報である。コルゴンにだけ台詞がなかったことに引っかかるものがあったり、2期最終話のしめくくりかたに続きに対する色気のようなものをそこはかとなく感じたりしてはいた。それでもまさかの展開である。
 1期放映時から「東部編や第四部も作ってほしい」という声をたまに見かけ、失礼ながら「このスタッフにそれをやらせるのは酷では。実行したらまさしく無謀編だ」という感想を持った。西部編の時点で、各エピソードを尺の中におさめることに手一杯の体制だったように見受けられたからだ。

 さておき、感想文を最後まで書いておきたいと思っていたのでようやく重い腰を上げることができた。
 ♦ ♢ ♦ ♢ ♦

 「あの私服はいったい!?」
 最終回に対する感想が前述の通りであるなら、サルアに対する感想はこれ。
 神官服で逃亡するのはやや不自然ではあろうけれども、わざわざワンカットのためにデザインを起こすほどのことはない、……と普通ならそれで片づけられるところを、どうしても思い出すのは1期で着ていたあのお召し物。原作にある暗い緑のスウェットと黒のスラックスでもなく、レンジャー崩れを装っての制服でもなく、それこそ「わざわざ」デザインされたあれである。
 わたしはてっきり、原作通りの格好をさせると「レンジャージャケット、神官服、私服」と3種類になるので、「狼」の服と「背約者」の私服を統一したのだと思っていた。
 結局着たきり雀だったのに深い理由はなかろう。だがおかげで「原作とも全然違うオリジナルの私服を着用した」という事実が発生してしまった。特段におかしな話でもないのだが、よりによってサルアにオリジナルの私服がと思うと妙な気持ちにならざるをえない。

 こうも重箱の隅をつつくような話になるのは、この話におけるサルアの役割は9話であらかた終わっているからだ。なにもしていない、という意味とはむろん違う。メッチェンを助けようとしたり、ボルカンの頭をどついたりしている。
 サルアという登場人物の特徴、あるいは役割は「説教」に集約できる。
 おおかたの読者にとって、サルアは「我が神に弓ひけ背約者(下)」でのマジクへの説教で記憶されているだろう。「遺されたもの」でもマジクに対し折に触れてなにかしら諭していたようなことが示唆されている。
 「キエサルヒマの終端」では天下の主人公に乞われての説教だったし、アニメキムラック編放映を前にして世に出た「いつぞ、死の教師は」は、サルアが初めて他人に説教するエピソード。これはもう作者から「そういう人」と太鼓判を押されたのも同然。大陸の帝王と自負する剣の腕を十二分に発揮し、チャンチャンバラバラチャンバラバラ、なみいる敵をずんばらりする場面が出てこないのもいたしかたあるまい。
 というわけで、あえて最終話のサルアについて注文をつけると、クオに斬りかかるカットをハイパーかっちょよく描いてほしかった。スタジオディーンくん、きみだってやればできるんだ! どうして超かっこいいサルアの勇姿を見せてくれないんだい!?
 アニメの魅力というのはやはり「絵が動いて見える」ことにある。原作でアクションシーンがあまりないお人であるため、派生作品にはついつい期待という名の願望を寄せてしまう。まあ……舞台版もマンガ版もアクションシーンどころか出番が……その……。
 サルアを「説教する人物」だと規定してみると、彼は常に語って聞かせる対象、問うてくる誰かを必要としていることになる。暗闇の向こう、いるかいないかもわからない相手に向けて語りかけるタイプではないのだ。
 秋田作品の登場人物たちは、やりたかったことは達成できず、「やれること」すなわち身についた技能(ないしは性質)をよすがに前進していく。その技能は状況の打破をもたらすかもしれない。かえってその人物を追い詰めるかもしれない。サルアの場合は、さてどうだったろう。
 作中ではいい結果になっているところしか描かれていないけれども、「遺されたもの」を見るに、説教に持ちこむ悪癖があると周囲に受け止められているような印象を持つ。

 若いだのなんだのと言った物言いをクリーオウにはおっさんくさいと評されているが、頼まれもしないのに一席ぶつところもおっさんくさい言動に含まれよう。他方、「自分自身のことはしゃべりたくないが、わかってはもらいたい」という稚気のあらわれともいえる。
 逆に「終端」は作中では唯一、サルアが求められて道理を説くパターンだ。のちに「鋏の託宣」でサルアに自らの言葉が返ってくる――主人公を裏切ることになるのはおさえておきたい。サルアとオーフェンの友人関係はあの時点でとっくに決裂していた。それでも決定的に変化が起こったのは、間柄に鋏が入ったのは、まさにあの場面だったにちがいない。
 ところで、「終端」のオーフェンはメッチェンに「問い質して欲しくて仄めかしてる?」と聞かれることからわかるように、自分自身の心情を聞いてもらいたがっている。ふだんは内心どころか、事と次第の経緯すら説明しようとするモチベーションに乏しいのだから、当時のオーフェンはよほどおいつめられていたのだろう。
 メベレンストではクリーオウやマジク、レティシャらがいた。アーバンラマに来てからもコンスタンスらマギー家三姉妹という知り合いはいる。だれかが聞こうとしたらオーフェンはたぶん話した。水を向けられたメッチェンは断り、自分から問いかける人間もいなかったので、とうとうオーフェンは口を開いた。
 「教師のお前に訊いてもいいか」とは、オーフェンの自制心の発露でもあり、サルアの逃げ道を塞ぐ言葉として機能するとも読める。問われれば拒むことのない生業であるサルアは、のちに発した言葉を自ら裏切ることになった、という筋道を見出してみると、なかなかどうしてどうして。

 さて2期最終話でサルアとメッチェンの描写はアレンジが施されている。ムールドアウルになぎ倒されたメッチェンを助け起こし、聖印を切ろうとするのを遮って諭すような口ぶりで話しかける。ふたりは親密だと見せる意図のある描写だ。
 「異性の登場人物たちを親密な間柄として描写するのは、あるいは親密さの描写に恋愛を選択するのは、陳腐だ」とか、「原作から外れているばかりか、原作の有するユニークさを損なっている」と断ずることはできる。本作に限らず、何らかの翻案についてひろく言えることだが。
 だがこの点に限っては、「背約者(下)」エピローグでサルアはメッチェンを気にしていることが明確に描かれており、のちには結婚もしているので、本作のアレンジの中では「妥当」の範疇に入る。
 9話ではガラスの剣を渡す描写(メッチェン自身は使いづらいと判断していてもサルアに必要な得物だと認識していることを示す)があり、一貫性も有している。
 秋田作品において、異性のパートナーは恋愛・婚姻の形をとるが同性間ではそうではない。その種の陳腐さは原作にして既に具えられているのだ。
 そこで少しひねって、「サルアはメッチェンを助ける、諭す(説教する)ことができるのか?」という視点から見てみよう。


 原作で、サルアはムールドアウルでなぎ倒されたメッチェンを心配するが、メッチェンはクオへの注意を怠るなと返す。カーロッタを追おうとしたメッチェンに対し、サルアはそれを引き留める。両者とも、この場面ではクオを倒すことを優先している。
 女神来臨を前に、剣を落として膝をつくメッチェンをサルアは引っぱり上げようとする。しかし彼女はそれに応えない。そのしぐさは「拒むように」と表現される。両者は「クオを排除する」点で一致していても、女神に対する姿勢は異なっているのだ。
 女神の来臨、すなわちキエサルヒマの滅びだが、秋田バースではしばしば「滅び」と「変化」は同義語である。(望ましくない)変化に対し、サルアは剣を捨てず抵抗の意思を示し、メッチェンは諦める。ないしは、変化を拒まず受け入れようとしている。そんなふたりが志した「キムラック教会の変革」とはどのようなものだったのか。

 実はメッチェンがなぜキムラックの変革を志したのか、原作でははっきりとは描かれていない。モノローグでわずかに触れられるのみだ。対照的に、サルアの動機は他の登場人物との会話から浮かび上がるし、「いつぞ、死の教師は」でキムラックを救うためだと明言までされた。
 メッチェンは死んだ父の後を継ぎ、14歳で死の教師となった。父が命を賭して守った聖都の外へ出たくないとたびたび泣いたという。「パパ」という幼ささえ感じられる言い回しからは、彼女が父の庇護下にいたいという心情をいまだ持っていると想像される(サイズの合わない男物の革鎧とは、父の遺品ではないだろうか?)。
 オレイルはメッチェンに「師よ」と呼びかけられ、「お前の師は、わたしではあるまい」と返すくだりがある。これはメッチェンに父の面影を求められていることを察したオレイルが、やんわり拒んでいる風にも読める。
 メッチェンにとって聖都とは愛する父が守った存在である。聖都の中にいる限り、彼女は父に守られている。聖都の一部である雨(涙の比喩)が身体に染み込んでしまえばいいというのは、聖都との同一化を、父に守られた存在になりたいと望んでいるのだろう。
 しかし彼女がなそうとしているのは、聖都が「ひっくり返される」ほうだ。
 メッチェンは、というか子供を産まない女性はひょっとしたらキムラックでは立場が低いのではないかと思うことがある。「魔王」での台詞、「(死の教師の任にあるのは)キムラックにいるため」の意味するところは、邪推すればこうではあるまいか。
 聖都の内にとどまり、父に守られた存在でいつづけることはできない。父の後継者として死の教師の任につき、都市外へ赴かなければならないから。他方、父の命を奪い彼女自身を外へと追いやるまさにその職こそが、メッチェンをキムラックへとどめるよすがでもある。
 メッチェンが選んだのは、父と同じく聖都を守るために命を賭すことでも、父を殺した魔術士への復讐でもなかった。メッチェンにとって、聖都は彼女から愛する父を取り上げ、なおかつ彼女自身との同一化を拒む存在だ。そして父も、我が子よりも務めを優先して娘の前から永遠に去っていった対象なのだ。
 「ひっくり返されるのを見届ける」であって、主体的に「ひっくり返したい」と思っているのとは違うこと、「血涙」にて目的を達成するためには盤面をひっくり返すしかないと語っていることに注意が必要だ。
 独力でひっくり返すのは無理だと彼女は承知している。そこで魔術士の協力を得る(=利用する)必要が生じるわけだが、父が魔術士に殺されてまでも守った聖都を、その魔術士の手でひっくり返すとはいかなる心境か。

 キムラックは、教会も街も行き詰まり死に瀕している。サルアはそんな故郷を救おうと考え、根底からの変化が必要だという結論に至った。
 メッチェンはというと、キムラックが根底から覆されることを求めている。サルアにとっての手段が、メッチェンには目的なのだ。ふたりは同じ道を進んでいるようで、実は違うものを見ている。
 女神を前にしての様子からして、サルアはメッチェンを止める、あるいは道を変えさせることはできないのではと感じられる。チャイルドマンとイスターシバ、キリランシェロとアザリー、オーフェンとクリーオウに連なる描写だ。
 男性登場人物が無力さを痛感するに際し、「女性を助けられない」モチーフを多用するのはいかにも古い作品だ。第四部では、ベイジットとマヨールはそれぞれに異なる経験を積み重ねた果て、ふたりは再会し話をする。ベイジットは道を自分で変え、マヨールは負わされた役割を引き受けない。

 秋田バースにおいて、協力は搾取や収奪と不可分なものであり、交渉は扇動と区別がつかない。では扇動と説教に異なるところはあるだろうか。
 扇動は他者の行動を自らの利益になるよう誘導する(たとえその結果が他者の益にもなるのだとしても)。説教は当人に答えを出す、行動如何を決める意図があるならその手助けを行う。違いを見出せるとしたらここだろう。


 スタジオディーン版におけるメッチェンも検討しよう。2期3話においてメッチェンは自身の目的とキムラックの現状をオレイルに語る。これは、メッチェン及びサルアが「なにを目的として動いているキャラクターか」、そして「これからの舞台であるキムラックはどんな場所か」を受け手に説明するためのシーンだ。
 いわく、キムラック教会は信者たちから寄進という形で吸い上げながら還元していない。しかもメッチェンの台詞の途中で外輪街のカットが挟まれ、不利益は外輪街に集中していることがわかる。「“内”は富み“外”は貧している(この台詞は「血涙」p56を引いている)。」という。
 この現状を教主に直訴することがメッチェンらの目的である。そのために、唯一教主と面会のかなうクオを、オーフェンの力で排除しようというのだ。
 神殿街と外輪街の関係は、玄室と聖域のそれになぞらえられるが、本作ではラモニロック曰く女神との盟約で壁の中の人間種族は見逃されるらしく、収奪の構造がより強調されていることになる。
 前述したように、原作でメッチェンはサルアのようにキムラックの現状を懸念していたかどうかは不明だ。ジェイクはメッチェンをそれなりに信じ尊敬していたようだが、それは彼女の教師という肩書、ひいては「若い女の神官」ゆえと見ることもできる。外輪街の住民に対するメッチェンの態度は、原作を読む限りでは型通りのもので、気遣うどころか歩み寄っている様子もない。メッチェンは雇った盗賊団に情が移るなど、冷淡な人物とは異なるのだが。

 オレイルとの会話のほか、さらに市外に協力者がいることを示しており、メッチェンらがかなり具体的に変革を志していることがわかる。スタジオディーン版において、メッチェンは街をひっくり返すことよりも体制の是正を考えているのかもしれない。
 こうしたアレンジは、原作の味やユニークさを欠落させるものだろうか? ここではメッチェンとサルアの目的を明確に示し、ふたりがどういう人物なのかを説明する意図があるだろうし、それは機能していると思う。
 へたに原作の文面をなぞるに徹するよりも、なにを描くのか/なにを示すのかをはっきりさせるために変更を行い、それが機能しているならわたしの感覚では否定しがたい(1期におけるアザリーの動機を私怨ではないとしたことにも通じることだが)。
 ただ本作の問題は、へたななぞり書きや、機能していない変更のほうがよほど多いことである。

 ところで滅びが望ましくない変化であるなら望ましい変化とはなにか。おそらく意思に基づいた行動の成就だろう。

 ♦ ♢ ♦ ♢ ♦
スタジオディーン版について
 本最終回は1期・2期眺め渡しても際立って不出来なわけでは(むろん、良いわけでも)ない。ただ単に「こういう」回だった。それだけだ。

 インターネットでは、種々の派生作品の出来栄えが満足のいくものではなかった際、そうなった要因として「スタッフが原作を正確に読み取れなかったから」「スタッフが自身の好みを反映させようとしたから」「オリジナリティという名の我欲を発露させようとしたから」といった物言いがしばしば見受けられる。
 そうした評が、受け手を楽しませられなかった理由として適格な場合もあるだろうし、当てはまらない場合もまたあるだろう。
 本作はどうか。作品中の要素をいかに取捨選択し提示するか。設計段階でつまづいていたというのが、わたしの本作に対する認識だ。
 どういう物語にするかという確たるコンセプトがないから、原作各巻の「文面」、つまり書いてあることをできるだけ1話30分のフォーマットにおさめるのに終始してしまっている。かててくわえて、必要以上にえぐみのある描写は適宜やわらげる。原作既読者が喜ぶだろうサービスも差し挟む。そうした作業を破綻せぬようまとめあげた結果だったのではないか。
 だから、視聴しているとまじめに制作していることは伝わるものの、粗のある仕上がりとなってしまったのだろう。
 設計のミスに最もあおりを受けた登場人物がクリーオウで、コメディリリーフとしての役割のみを担わされてしまった。しかもコメディリリーフはすでにボルカンとドーチンがおり、二重に割を食った形になる。
 かばいだてすると、西部編でのクリーオウは状況をひっかきまわすトリックスター的な役割を持ち、なおかつ秋田禎信自身が認めるように乱暴な人柄として描写されていた。原作の文面をそのまま起こせば、ただ視聴者を苛立たせるキャラクターになりかねない。落としどころがコメディリリーフだったのだろうが、メインどころを活かせないのは大きなミスだろう。クリーオウのドラマが本格的に始まるのは東部編であるにしても。
 わたし自身、クリーオウという人物をいまだ把握しきれていない。よってスタジオディーン版はクリーオウの描写に失敗していることはわかるものの、具体的になにがどう、という話となると歯切れ悪くなってしまう。クリーオウについてはいまのところ、「主人公のパートナーとなることを目指す人物」だととらえているのだが、さて。
 かばいだてついでにもうひとつ。1期が11話、2期が14話の構成だったら、もう少しましだったかもとは思わんでもない。単純に分量の多さにふさわしい割り振りではなかったという話で、ましとはいっても、焼け石に水だったにせよ。1期は出来がまずくともストーリーの構成にさほどの破綻は見られなかったものの、2期は完全に迷走していた。

 映像表現の貧困さも、作品の完成度をはかる上では致命的だった。「ゲーミング〇〇」とよく揶揄されるように、本作はパーツを光らせるエフェクトを多用していた。その雰囲気が「オーフェン」シリーズにそぐわないのはもちろん、エフェクトが映像をより魅力的となるように作られておらず、安っぽく見えるのがネックだ。
 もうひとつよく目にする揶揄「クソデカ背景」もそうで、本作はいわゆる「作画」よりもむしろ画面作りのほうに大きな欠点を抱えているように思われる。
 「オーフェン」シリーズ含め、秋田作品はマンガやアニメーションといった視覚に強く訴える表現に向かないのでは、という意見がある。映像表現にしてもいわゆる実写であるとか、もしくは演劇といった生きた人間が身体をもって表現するのが合うという意見もある。
 2019年に上演された舞台版を考えればなるほどと思いもすれど、アニメーションとてプロが作る以上、仮に映像化がやりにくい作風だったとしても受け手をそれなりに楽しませるレベルが要求されてしかるべきだ。

 いい描写だな、と感じることは幾つかあった。ウオール・カーレン教師や人間時代のラモニロックのデザイン、そこかしこでの役者の演技、1期6話など。素晴らしい作品に欠点があるように、不出来な作品も美点はある。では美点の数が多ければすなわち「いい作品」で、逆に欠点が多いと「悪い作品」になるのか? 美点なり欠点なりが作品に寄与するのはおそらく完成度であり、それは作品をはかる物差しのひとつにすぎない。
 そして本作は各回の出来のよしあし以前に、まともに見られる作りであるほうが少なく、視聴する都度くさくさした感情におそわれた。
 とはいえ嫌いだとか怒っているかといえばそれは違う。視聴中の苛立たしさはあくまでその瞬間のことにすぎず、見終わったら忘れるたぐいのものだ。それはそれとして、感想文を書こうとするとあまりの粗の多さから「これがだめ、それがだめ、あれがだめ、どれもだめ」と欠点を挙げ連ねる体裁になってしまう。
 わたしが本作に対して持つ不満点は、完成度の低さよりもむしろ、本作独自の魅力が構築できていないことにある。アニメーションとして「語り直す」その手際に、原作既読者としてもどかしさを感じるのだ。

 商業上の要請から、アニメ化は原作のトレースが求められるように見受けられる。たくみにトレースしている場合は「忠実だ」「スタッフは原作に愛情がある」という物言いでもって称賛される。
 映像以外の作品を映像へ変換するテクニックを「忠実」と言い表していいのかは疑問がある。とまれ、もとから原作に親しんでいた人間をスタッフに起用するのは、ある作品を翻案し再構築するうえで無難な解決策というのは筋道が通っている。原作を読解する時間が省略できるし、リサーチせずとも「ファン目線」を取り入れられるからだ。コストダウンが図れる。
 アニメ作品に限らず、スタッフが関わるプロジェクトに「愛情」を持って取り組めばモチベーションの向上にはつながるだろう。だが「愛情」を要求する態度は、俗に言うやりがい搾取や過重労働に通底するように思われてならない。

・ラモニロックの台詞について
 感想文は最後まで書いておきたかったのは、サルアが出てくる回であり、始めたからにはやり通したいからでもあり、そしてひとつ気になった点があったからだ。
 10話でラモニロックは女神との盟約により、城壁の中の人間だけは守られると語っている。これは大きな変更といえ、基本的には原作の文面をなぞっている本作にあっては毛色が異なるアレンジだ。これまで本作が変更を行ってきた箇所は、エピソードの省略の結果のつじつま合わせなど各種の調整であったり、原作における描写をやわらげるものであったりと、機能しているか如何にかかわらず意図が見えやすかった。
 原作によれば、ラモニロックは開拓公社の先遣隊としてキエサルヒマ北部に赴き、そこで空中に浮かぶ女の足を発見した。その足をひっぱった結果、女神と接触して現在の姿になったというのが、「背約者」時点での説明だった。身体の変化は天人種族に改造されたためであり、本当に女神と接触したかどうか不明である。砂塵の向こうに「なにか」を見出したまでは本人の記憶なので実際に起こったことだと思われるが。
 各種関連書籍やオーフェンペディアでは「ラモニロックは女神の足を引っ張った」と述べられているが、オーリオウルが自身の身体で結界の穴をふさいだとあるし、彼がひっぱったのはオーリオウルの足だったとわたしは認識している。女神の腕まで入りこんだ余波であの一帯には大穴が空き、その上にユグドラシル神殿が建設されたのではないか。
 スタジオディーン版の描写は、実を言うとこれを書いている時点でほとんど忘れているので間違っていたら申し訳ないが、本人の証言もあるし実際に女神と邂逅したとしておく。原作と同様、天人種族に思いこまされている可能性もあれど、押さえておくべきは「ラモニロックは城壁の中の人間種族は滅ぼさないと女神と盟約を交わした、と認識している」点だ。
 キムラック編開始前にわたしが懸念していたのは、キムラック教会の教義が作中でどう扱われるかだった。
 女神は変質した常世界法則を元に戻すため、ドラゴン種族を絶滅させようとしている。天人種族と交配して生まれた半ドラゴン種族、人間の魔術士も絶滅対象になりうるし、人間種族は巻きこまれる可能性が高い。人間種族は女神の攻撃の矛先から身を守るため、人間の魔術士を絶滅させねばならない。キムラックの教義は以上のようなものである。
 これはまさしくレイシズムに基づいた思想であり、用語を入れ替えれば現実に流布している風説によく似たものを見出せるだろう。「われわれは被害者と"なりうる"から、その前に彼らを排除すべきだ」。
 なお原作第四部では教義が嘘だったことが明かされているものと思われるが、「魔術士は世界を危機に陥らせる」「魔術士は役に立つから活用し、社会にその存在をゆるすべき」とレイシズムによる価値観は依然として根を張り、解消は見えない。
 現実には1990年代に人種なるカテゴリは生物学的には存在しないとされたらしく、しかしいまだに人種という言葉は自明のものとして大手を振るっている。まして、「オーフェン」世界では魔術士と非魔術士の間には生物学的な違いが存在しているのだ。ただしこの点については、非魔術士の人間種族が天人による改造で魔術を使えるようになっていることをもって、解体への道筋が残されているようにも思える。数百年後の原大陸では、望めばだれでも魔術を使えるようになっているかもしれない。

 ただし、魔術が当人の意志とは無関係に肉体に具わった「特徴」から、意思にもとづいて身につけうる「技能」へと転換したとして、レイシズムに基づく価値観が即解消されるというのは楽観的すぎる。

 作中で人間種族は魔術を失う可能性も示唆されているのはおもしろいところだが、それは天人種族から得た遺伝子を失う、魔術士がいなくなることを意味する。魔術士と非魔術士の対立は片方の消失によって解決するという寒々しい予測も成り立つ。
 キムラックの教義を、レイシズムに対して鈍感な日本社会では危ぶむべきものと扱えず、それどころか「ラモニロックにも深い事情があり、そうせねばならなかった」と肯定的に描くおそれがわたしにはあった。
 結果的には、魔術士/非魔術士ではなく壁の内と外とで分けるという描写になっていた。レイシズムへの批判あるいは問題点の解消とはならずとも、多少なりともやわらげようとした意図があったのではないだろうか。
 秋田の発案だったりしてとも思うが、「いいアレンジは作者の発案で、悪いアレンジはアニメスタッフによるものだ」というのは単に悪意的な見方なだけである。ひょっとするとさしたる意図はなく、尺に収めるためとか受け手にわかりやすくするための変更かもしれないのだ。

・物語が終わって
 1期6話を見た際、いちばんできがまともな回に好きなキャラクターの見せ場があったことに、やや複雑な気持ちになった。そちらと比べ、2期9話は見ていて「おっ」と思わせるものに欠けていたものの、手際としては破綻がない。
 欠点の多い本作にあって、サルアについての不満がなかったのはなんと言ったらいいのか。
 なんどか言ってきたように、わたしは本作を「アニメ化に際し、確たるコンセプトを持っていない」と捉えている。翻案とは、原作に「書いてあること」をくまなく映像に起こすだけの作業ではないはずだし、まして週1回放送・30分・1期14話2期11話の枠内におさめようとすれば描写できることは限られてくる。なにを描写するのか/しないのかの取捨選択に失敗し、あれもこれもとどっちつかずとなった作品だ。
 そしてサルアは、省略に困るほどの分量もなく、また受け手に色気を見せて書き加えなければならないほどのこともない、ちょうどいい分量だった。そう言えるのではないか。
 また、演じる下妻さんのお芝居もたいへんによかったことは繰り返しておかなければならない。1期6話、オーフェンと対峙した際の一連の台詞回しは本当に素晴らしかった。あらためて2期放映前のキャストコメント「サルアという多面体」という言葉の重要さをかみしめたい。

 本作については隙間編が書かれる契機になったから「よかった」、あるいは好きなキャラに声がついて動いたから「よかった」とかも、おためごかしになりそうでとても言えない。
 サルアにやたら入れあげているがため、動いてしゃべっている様を目にする望みが二十数年越しに叶った、それだけで「頭がウルトラハッピー」と口走りはする。ただし作品の出来如何、ありようとは無関係に発生する感情、錯覚に過ぎない。わたしの見ているものは作中に存在していないともいえる。
 「よかった」と言い表せられるのは、本作が制作され、わたしは最初から最後まで視聴することができたというその点だ。
 1期最終回と共に2期の放映が告知されたとき「これを見終わるまでは死ぬに死ねない」とわりとまじめに思った。社会全体の先行きが不透明で、2期は制作・放映されるのか、放映されたときにこちらはPCないしTVの前に座っていられる状況なのかもわからない。はたから見ればおおげさな心配だろうし、実際杞憂に終わった。幸いなことだ。
 2期の最終回を迎えたあとは様々なことに対するモチベーションが目に見えて下がり、「毎週見る」という習慣は具体的な目標として機能していたのだなと実感した。
 どうせモチベーションとするなら、できばえ素晴らしく、見るだけで「励まされ、元気を届けてもらう」作品にすべきだったのか? もしも世の中がこんなに「わやな」状態でなかったら、毎週ちゃんと見ようとする気持ちにはならなかっただろうか? わからない。サルアが好きなキャラクターでなかったら関心が失せていたのは、十分ありえることだろうが。
 なんであれ、往時わくわくしながら読んだ作品の、そして残念ながら出来のよくない(そしてつまらないことは罪ではないとわたしは思う)アニメ版を最後まで見終えた。見終えることができた。