サルア君はアニメに出ないが(4期聖域編1話~11話)

 もったいない話だな、というのが11話を見ての感想だった。

 3期は「残念ながら出来がいいとは言えない。それでも、1クール通じて各話まともに見られる作りをしており、なおかつストーリーラインを設計してそれに沿った描写ができている」と感じた。1期・2期を思えば驚くような改善ぶりだ。
 そして4期は「ふつうのアニメ」と言っても構わない、と思えるほどだった。ふつうとはつまり、原作を映像化するにあたってなにを画面に表し、なにを省くか、あるいは語り換えるかの手順が、不足や取りこぼしがあったとしてもこなせていると感じられたのだ。
 たとえば3話だ。ダミアンの未来視の罠によってオーフェンたちは分断され、各々がいずれ体験すること/既にしてきたことをネットワークで体感させられる。
 その前の時点で一行が「偶然」荒野でばらばらになっていたこと、最接近領をジャックが襲撃していたことも手伝い、原作では一度読んだだけではなにが起こっているのか把握しづらいくだりだ。
 ちなみにわたしは、「キエサルヒマの終端」がきっかけで再読し、他の方の感想やオーフェンペディアを読んでようやく本文になにが書いてあったのか理解できた。「終端」がなければ、いまだに「そういえば、あれはどういう話だったんだろう」と首をかしげていたかもしれない。
 今回のスタジオディーン版では、「主人公たちはダミアンによって個別に転移させられてそれぞれ幻覚を見せられ、混乱するしかない状況に叩きこまれた」ということが映像を見るだけで伝わるように描写されている。
 わけのわからなさ、すっきりした説明のないまま放り出される宙ぶらりんの心地などは、原作第二部(東部編)の真骨頂だ。とはいえ翻案にあたってやるべきなのは、「一行が分断され、なおかつ情報を遮断される。それに乗じてダミアンはオーフェンを利用しようとする。混乱の中でイールギットが死ぬ」という展開をスムーズに受け手へ認識させることだろうし、この場合単純化は功を奏しているといっていいだろう。
 1期・2期は原作本文に記述されていることを一話ごとにおさめていく作業だけであっぷあっぷしていたように見受けられた。それが3期以降は、原作の内容を適宜整理し、受け手にどんな情報を/どんな形で認識させたいのかという意図に沿った描写ができるようになっている。
 原作第一部(西部編)は一冊ごとに事件が起こる様とその解決が描かれ、また「主人公が過去にけじめをつける」というわかりやすい筋が見いだせる構造だ(実際に「けじめをつける」話だと言えるかはともかく、そういうふうに組み立てやすい)。その第一部では再構成が破綻しており、読者からもわかりにくいという声の出る第二部ではできているのは、不思議な話である。


 おおきな改善がみられた一方、スタジオディーン版は絵の説得力が弱いという欠点を抱えていることもあらためて認識した。
 イールギットは未来視の罠で自分自身の死を体感し、さらに精神支配から解放された直後に最接近領の惨状を目撃して恐慌状態に陥ってしまう。冷静さを欠いた彼女は判断力を奪われ、身体を繰り返し損壊させられながら死ぬ。
 視聴した際は、イールギットが死体の山を目にしてショックを受けた心の動きや、わけのわからぬまま死んでいく理不尽さを映像から感じ取れず、本作の限界を見たように思った。
 エフェクトの安っぽさ、(3期以降は改善されたとはいえ)背景や小物と人物の縮尺のおかしさがよく指摘されるけれども、「絵が動くように錯覚する」様を通じてなんらかの情感を受け手に喚起させる、その力が本作はやはり弱い。
 こうした説得力を持たせられていない点を指して「作画がよくない」と表現するのは適確だろうか? 一般に「作画」が云々と語られる際には、映像ないしはイラストレーションとしてのきれいさ、というニュアンスが感じ取られ、ここでわたしが言いたいこととはズレている。
 はたしてアニメーションというのは、中割の枚数の多さ、描線の細やかさや塗分けの多彩さ、キャラ表との一致度合い、一枚絵としての完成度でもって素晴らしいものとなるのか? そうした疑問があり、また「作画がいい/崩れている」といった物言いは曖昧に思われ、個人的には使いづらい。 
 たとえば2期でのクオがムールドアウルを振るうシーンは、レイアウトや動きの細かさなど、4クール通して見ても最も凝った作りのひとつだろう。しかしここでも緊迫感が表現できているとは思えなかった。
 繰り返しになるが、絵の説得力の問題を「作画」に、言い換えれば映像品質にのみ見出すのは個人的には避けたい。週一回放送のTVアニメに高い映像品質を求めるべきかは甚だ疑問だし、またアニメ制作の労働環境を伝え聞くと、単にアニメーションの細やかさや美しさを称賛していては状況に加担するだけだとも思える。

 細かいながらもほかに絵の点で気になったのは、レティシャの用いた閃光弾が現実の手榴弾そのままの外見だったことだ。一瞬しか映らないので伝わりやすさを優先したにしても、違和感は残った。これについては、事前にどこかのシーンで現実に近い武装をしていることを示す描写があれば、そこまでひっかからなかったかもしれない。
 とはいえ、潜入するに際し3人まとめて光の玉で包まれて塀を越える、とか「いかにもファンタジー作品でござい」という絵を描かれるよりはよほどマシだが。

 欠点一辺倒だったかといえばそうでもなく、領主の見舞いを受けて感涙にむせぶウィノナや、ダミアンがオーフェンに向けて放ったゴーストにライドとトリンキーがいることなどは、このアニメでひさびさにうまい工夫を見たと思った。
 原作では、ウィノナは見舞いに来た領主が去った直後にオーフェンのノックを聞き、ひどく取り乱す。彼女の所作やその後の会話から、ウィノナが領主に心酔していること、なおかつそれは熱烈な忠誠心と片づけられないものがあるとほのめかされている。このあたりのニュアンスを感涙のみで表現しきった、とまでは思わない。ただ、本文に書いてあることをそのまま映像に起こさず、端的に見せる意図が見受けられる。
 同様に後者は、オーフェンの前に次々とゴーストを出現させるも、それがダミアンに既知のものでしかないと絵で伝える効果を生んでいた。チャイルドマンやジャックとは異なり、ライドとトリンキーは受け手は知っていてもオーフェンにとっては見知らぬ相手だからだ。
 ダミアンはネットワークにアクセスし、死者をも再現することができる。しかし本人をそっくりそのまま投げてよこすわけではない。もし本物のチャイルドマンなら、オーフェンにあっさり打ち倒されたかというと疑問だ。所詮魔術であるがゆえに、ゴーストの力はダミアンの制御の範囲内におさまる。ダミアンは未知の力を発現させることはできないし、それがゆえに未知の力に対抗することもできない。ゴーストの顔ぶれでそれがよく伝わった。
 余談だが、6話はニコニコ動画で「お爺ちゃんはおしまい!」なるタグがついており、「た、確かに……」と納得させられてしまった。

 ところで、イールギットがその今際のきわ、伝言を口にできたのはなぜなのだろう。アザリーなりレティシャなりがなんらかの干渉を行ったのかもと想像できるが、もしそうならイールギット本人が言いたかったことよりも伝えるべきことを優先した、ひょっとしたら「させられた」ということになりはすまいかと、益体もないことに思いを馳せてみる。
 イールギットとウィノナの対比、つまりイールギットは状況をよく見ていれば死なずにすんだかもしれない一方、ウィノナはよく見ようとしたために命を落としたのかもしれないことも考えると、ここからはまた別の文脈を掘り起こせるのではないか。


 1期・2期に比して3期・4期はまともに見られる作りになった。だが根本からおおきく変わったわけではなかろう。「原作に書いてあることを整理し、各話25分の中に適宜収めていく」という制作方針はおそらくそのままだ。もっとも、その「整理し、提示する」という手段がちゃんとできている時点で格段の違いがある。シリーズ構成の交代が改善の要因では、という声も聞かれるが、作っているうちにチーム全体が慣れてきたのもあるかもしれない。

 目立つ変更点のひとつは殺陣だ。1期・2期は毎回ノルマよろしく立ち回りのシーンが入っており、振り返れば各話のシナリオを設計する上で足かせになっていたのではという気がする。
 3期・4期も戦闘シーンはあるものの、以前と比べ描写の方向性は異なっている。決め台詞のようなものを叫びながら、つまり感情を高ぶらせながら攻撃をしかける、というやりかたはそのままだったが。
 そんな中でも、銀月姫オーフェンのシーンは魔術を用いず地味な描写で収めており、「オーフェンがゴースト現象について考えこみながら片手間に対処する」という雰囲気が作れていたと思う。

 殺陣が影を潜めたかわりに前面に押し出されてきたのが、台詞の応酬およびモノローグだろう。秋田作品は音読しやすく、また聞きやすいという評価があるそうで、それに倣えば会話劇に描写の重点を移したことが良い方向に作用したといえようか。
 私の見た範囲の限りにおいては、3期からキャスティングや演技に好意的な
評価がなされるようになっていった。とすると気になるのは音響監督だ。前述の、省略に際する取捨選択や会話劇などはシリーズ構成の変更が影響しているのではと推測されるが、音響監督は一貫して平光琢也がつとめている。キャスティングや演技指導の面からはどのような仕事を果たしているのだろう。
 インターネットで目にするアニメの感想においては、監督・脚本・アニメーター・声優への言及は頻繁に行われる一方、音響監督についてのそれはあまり見ない気がする。これはいわゆるフィルターバブルのせいだろうし、声優を熱心に追っている方面だとまた違ってくると思う。
 余談その2。コルゴンに小野大輔を当てるのは、本作における数少ないわたしの「「「わかる」」」ポイントだった。


 4期は前半、つまり原作の「我が館にさまよえ虚像」まではこの出来なりの満足感も得ながら視聴していた。ただ7話以降は「我が聖域に開け扉」を5話構成で展開しており、いかんせん無茶が過ぎる。ので、11話を見終えたときは最初に言ったように「もったいない」と感じた。
 もしもっと充分に尺があれば、たとえば12話に「キエサルヒマの終端」をやらないとか、3期「我が夢に沈め楽園」をオミットして2話ぶんを用いるなどしていれば結果は違っていたかもしれない。
 しかしこれはTVアニメというフォーマットがゆえのものだ。放映こそ連続してはいても、おそらく第二部をアーバンラマ編、聖域編と分割しての制作で、そうなると3期12話にクライマックスとして「我が絶望つつめ緑」を置くしかあるまい。
 ただし十分な話数が割かれていたとして、本作の完成度がさらに高まったかは疑問だ。1クール12話前後、各話OP・ED含めて約25分というフォーマットは表出のしかたに大きな影響を及ぼしただろうが、そのフォーマットは本作がこうなった大本の原因ではない。5話構成ではなく7話構成でも、駆け足の描写にならず多少はマシになっていた、その程度の差でしかないと思える。
 それでもこの差は見方を変えれば大きいものであり、「5話は短すぎる。もっと時間を割いて作られてもよかった」という感想はわたしの中に存在する。


 1期から4期を振り返って思うに、本作に対するわたしの不満は「コンセプトのなさ、弱さ」と「かっこいいと感じることが皆無だった」に大別できる。
 なるほど3期以降は原作を整理し、提示することはできている。しかしそこから「なにを表現したいのか」は伝わってこない。整理と提示がなにがしかの「表現」にまで至らず、ダイジェストに留まっていると感じた。
 それに整理するのはいいとして、原作の持つニュアンスの重なりを簡略化し、単純だったり陳腐になってしまっている場合も少なくなかった。描く要素を絞りこまざるをえないなら、これと決めたポイントを際立たせるなどすべきだろう。
 せめて「なにを表現したいのか」という確固たる芯があれば、整理する手つきの中にも意図や工夫を見出しえたかもしれない。しかしそうしたものを感じ取れる機会には恵まれなかった。
 とはいえ、「結局コルゴンはロッテーシャのことが好きなのだ」というような味つけを見ていると、仮に焦点の絞りこみができていたとしてもありきたりなものになっていたのでは……と底意地の悪い見方をしてしまう。
 が、いまの日本でエンターテイメント作品をやるならスタジオディーンに限らず「男性と女性が近づけば恋愛感情が発生しそこにドラマがある」という描写に留まると思われる。そもそも原作からして「終端」以降は異性愛規範を強めていく傾向があるのだ。
 第二部は、主人公であるオーフェンの話、キー・キャラクターであるロッテーシャの話、クリーオウの話、マジクの話、コルゴンの話、アザリーの話、と各登場人物のストーリーが平行した状態で進んでいく。同じ舞台に立ちながら、彼らは自分自身の意志と行動に手一杯で、他者の心の内を理解しようとするゆとりもない。これを1クールにおさめようとすれば、一から構築するくらいでなければダイジェストになってしまうのは当然のことだったとも思う。
 1期・2期ではクリーオウが活かせていないと感じたが、3期・4期ではこれまでにドラマを描くことに失敗しているぶん、マジクもかなり割を食ってしまっていた。ただ3期・4期のマジクについては、原作の良さを削いでいるというより、原作の難しさに引きずられた印象もある。

 もしも本作のコンセプトでポジティブに受け取れるものがあるとしたら、「最終回に『終端』をやる」という一点になるだろう。

 往時、「オーフェン」という小説はわたしにとって「かっこいい」作品だった。魔術の設定などにみるユニークさ、理屈っぽい戦闘シーン、平易な言い回しなのに独特の味わいを持つ作中用語、それとなく小出しにされてきた描写の種明かしが簡潔になされる切れ味の良さ、そして草河遊哉のイラスト。
 これらの魅力が本作では省かれた、だけならまだしも、「かっこよさ」からほど遠い描写が特に映像面では多い。そちらのほうがエフェクトの安っぽさや縮尺のおかしさよりもよほど重大な欠点だと感じた。クライマックスに受け手の感情を高めるような映像表現がまるでできていないのだ。どころか、「そういう表現しかできないのか」と呆れることのほうが、残念ながら多かった。
 原作をそのまま引き写せば、原作の魅力を活かした翻案ができるとは思わない……というより、なるはずもない。そもそも小説とアニメーションは表現形態からして異なり、得意とする描写もまるで違う。
 原作についてたまさか聞く映像化しづらいという評価は、「記述をトレースしてもわかりやすく魅力的な映像にならない」という意味かもしれない。であればなおのこと創意工夫が必要なのであって、「忠実」なるお題目を掲げてわざわざ表現に制限を設けるのはやめたほうがいいのではないか。
 原作に「忠実」であることをわたしは求めない。「オーフェン」の映像化なら、かっこいいと感じる映像で見たかった。
 

 意図や工夫と言えば、おおまかには原作をなぞっている本作の中で、いくつかどうとらえればいいのか悩まされる変更点がある。
 本作と原作との差異は、ほとんどの場合なぜそうしたのかという意図が見えやすい。アザリーやクリーオウに顕著な、えぐみを感じさせる言動の緩和であるとか、原作読者への目配せと思しきチャイルドマン教室メンバー周辺の描写だ。
 しかし、1期でのマジクとクリーオウの服はオーフェンのおさがりだという描写、2期での壁の内側にいる人間種族は見逃されるという女神との盟約、4期のロッテーシャの部屋にかけられた鍵。これらは「なぜわざわざ変えたのか」がよくわからない。
 スタッフが原作を読んでいないから、あるいは読んでも理解していないとか勘違いしているからという憶測を否定する材料は、むろんない。ただその場合、他の箇所はなぜ変更されていないのかという理由づけも不足している。

 原作でクリーオウはマジクの服を勝手に寸法を直して着ているという描写があるのでそこから着想を得たのではと推測できる。また「コミクロンズ・プラン」でオーフェンがタンクトップを身に着けていることからなにがしかのフィードバックがあったのかも、と想像する。
 さしたる意図のない描写だったかもしれないが、このふたりがオーフェンを「追う」キャラクターであることを思うと、衣服がおさがりだとすることでその性質の表象となっているとも読める。とすると、最接近領以降ふたりが衣服を着替えることにも意味を見出せよう。

 ラモニロックが天人種族によってアイルマンカーだと思いこまされていたことを考えると、彼が言う女神との盟約も実態は怪しい。設定面での真偽はさておき、ストーリー上のねらいとしてはラモニロックの動機と行動をはっきりさせるためだろうか。
 アニメ制作において、スタッフから秋田に設定の確認や質問があったそうだし、秋田自身の発案という可能性もある。

 ロッテーシャが聖域で寝泊まりしていた部屋と、クリーオウの病室は明確に対比されている。ロッテーシャもクリーオウも、扉を開けてみようとはしなかった。そしてコルゴンは見張るだけで開けようとはせず、オーフェンだけが扉を開けた。ならば「扉を開ける/開けない」は「男性がどうしたか」という問題に落ち着いてしまい、女性の主体は置き去りにされている。
 これを「開けて外に出ようとしたロッテーシャ/鍵をかけたコルゴン」「開けなかったクリーオウ/開けて中に入ったオーフェン」とすることで、対比の軸がより強調されたとみるのはどうだろう。作り手の意図は不明ではあるが、描き出されたものをこのように読むことはできる。