サルア君はアニメに出ないと思いきや(4期12話)

 12話「キエサルヒマの終端」

 


 原作第二部(東部編)アニメ化の報を知ったとき、さまざまなことが頭を駆け巡った。

「つまりサルアが言及されるチャンスがみっつもある」
「あのスタッフで第二部? 無謀すぎる」
「売れてないだろうになのになんで続編が可能になるんだ」
「まさか『終端』やら第四部やらまでやるつもりか?」
「いや『終端』はともかく第四部はないとは思う。思うんだけれどもこのていたらくで第二部制作にゴーサインが出るんだったら可能性がなくはないのがおそろしい」
「――で、結局のところサルアは出るの?」

 結果的には、4期11話までサルアについて言及はなく(画面には映った)、そしてエピローグとして「終端」がアニメ化され、しかも出番があった。まあ妥当なんじゃないか。

 ちなみに言及チャンスとは、「我が夢に沈め楽園」ロッツホテルを前にしたマジクのモノローグ、「我が聖域に開け扉(上)」調理場でのクリーオウのモノローグである。
 ついでに、根拠はないながらも「我が心求めよ悪魔」でスレイクサーストの由来が語られるくだりも数えていいかもしれない(まったくよくない)。オーフェンが由来をつまびらかに知っていたのはサルアがしゃべったからでは、というわたしの想像をもとにした完全なこじつけだ。だってオーフェンが鬱陶しそうな顔で聞き流している横で、にやにやしながらペラペラ語っていそうじゃないですか、ほら。
 そんなこじつけよりも、「扉(上)」でオーフェンがこれまでの旅路を振り返るくだり、または領主がキムラックとその神官たちに言及する台詞の方が現実味があるだろうか。しかしサルアは「我が身を犠牲にしてまで魔術の消滅を希求する」人間ではないわけで。

 なんにせよ、いついかなるときもサルアが出てくる可能性を追求するというオタクの構えは空振りし、しかしストーリーの進行ペースからどうも「終端」をやるのでは、という雰囲気が画面から見えつつあった。
 3期EDにサルアがいるのを見たとき、「終端」をやる前フリでは、とはもちろん考えた。これが1期・2期の映像を流用したものなら「視聴者に前シーズンを振り返ってほしいんだな」と思うし、またEDの他のカットのように原作のイラストがアニメ用にかきおこされていたのならそのコンセプトはわかりやすい。
 それがまさかの新規カット。「どういうことなんだ」と困惑の声をあげざるをえなかった。原作読者へのサービス、というのはまずあるまい。サルアが出てきて喜ぶ人間は世の中そうはいないし、かつての読者を喜ばせよう、懐かしがらせようとするならプレ編を選択するだろう。
 ちなみに、サルアが描かれている原作のイラストは2点が本作に登場済みである。ファンブック表紙絵が1期EDに、そして「背約者(下)」のガラスの剣を鞘から抜く挿絵は、その構図が2期9話の地下室の扉を開けるカットに流用されている。そのほかのイラストは血まみれの恰好だったりするのを考えると、新規カットになるのは当然……いや当然なのか?
 本作がさんざんダダ滑りの様相を呈してきたことを考えると、なんの意図もなかったり、あるいは本気でサービス精神を発揮したつもりということもありうる。しかし作り手側の意図がどうあれ、わたしのテンションは爆上がりになった。ありがとうございます。


 4期が「扉」に入ってからストーリーの速度が早回しになり、インターネットでは最終回に「終端」をやるのでは、という感想が散見されるようになった。一週間遅れで配信を視聴したわたしも「たぶん、これはやるのだろう」と思った。
 そして公開されたクライマックスPVにはあきらかに「終端」のシーンが入っている。となると問題は、サルアの出番があるか否か。「原作にいるんだからアニメでも出番はあるだろう。省いたらストーリーをごっそり変えなければならず、そのほうがむしろ労力がかかる」「OP・ED込みの25分ほどで『終端』をやるのはいくらなんでも無茶苦茶すぎる。はしょられるのもやむなし」という、両極端な気持ちでわたしの心は千々に引き裂かれた。

 おるやんけ――――――

 いや待て。予告カットに「いる」からといって出番が「ある」とは限らない。そりゃもちろんこのカットだけでわたしとしては「出番あった! ヤッター!!」と喜ぶところではある。だが肝心のストーリー上の出番はどうなるのか。
 動揺したわたしは「つまりこのカットはデートなのでは?」とか「よしわかった!『あの人は今』とかそういう感じでEDに出るんだなそうに違いない」などと言って現実から目を背けようとしていた。しまいには一周回って「どうにかして最初からこの話をなかったことにできないか」という心持ちにまでなった。

 そして迎えた11話、というか次回予告。
「いよう、噂になってるぞ。魔王オーフェン
 喋っとるやんけ――――――

 かくして「終端」アニメ化という最終回を迎えることとなった。サルア含めて全般的に相当きりつめられており、出来もまたいつものごとくではあったが、それはそれとして「サルアが! 動いて! しゃべっている!」という感動がいやまさる。
 兄の死に対する悔恨や折れたガラスの剣、ネクタイずらすだのズバァだのも見たかったし、なにより下妻さんのお芝居をもっと聞きたかった、とはそりゃ思う。思うけれども、表情が細かく変化していたり、ちょっとした所作に芝居がつけられていたりして見ごたえがあった。アニメーションにおいて、「動きがつく」というのは「なんとなく」では起こらないからだ。

 にしても、3期・4期はせっかくだからクリーオウをメインに据えた構成にしてもよかったのではないか。アーバンラマ編は言わずもがな、このアニメシリーズ全体を締めくくるラストも「終端」であるのだし。このスタッフに思いきったテキストの再構成を行う力量があるかは別として、そのようなことも考える。


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 ニコニコ動画で「あいつがそいつでこいつがそれで」のタグがついており、「わかる~~~~~」ってなった。

 3期・4期は毎回冒頭でオーフェンのナレーションによる作中用語の解説があり、手法としては陳腐でも2クールで第二部をやる構成ではこれが無難だと思う。
 ユニークでこみいった設定は原作のおおきな魅力のひとつだ。しかし原作は小説という体裁上、一冊ごとに説明を繰り返すことができ、またシリーズが本編・無謀編・プレ編と並行して書き進められる中で用語や設定はばらばらに登場してきた。映像化にあたって同じやり方で通すのは難しかろう。
 そしてこの4期12話では社会情勢の説明をクリーオウが行うことにより、物語が転換を迎えたことを印象づける効果も生んでいる。

 にしても、なぜ騎士軍の制服に魔術戦士のそれを流用したのだろう。デザインの手間を省いたにしては意味がよくわからない。この際「騎士軍」という単語から連想しやすいような、それっぽい甲冑でよかったのでは。それとも、スタジオディーン版お得意のズレたファンサービスなのか。
 もし、実はそうとは触れられていなかっただけで、「魔術戦士の制服は騎士軍の物を流用していた」という設定だったらどうしよう。オーフェンは偽王罪に問われたことがあるらしいが、その根拠が王立騎士軍の制服を流用していたことによるものでというこじつけを、いま思いついた。
 あと、メベレンストに黒煙が上がりキムラックに上がっていないのは逆でいい。たしかメベレンストは戦場になっておらずストーリー上不自然というのもあるが、キムラックで戦闘が起きたと示すほうが難民の存在に説得力が出たと思う。まして難民たちはほとんど画面に映らないわけだし。

 2期3話でキムラック近郊は砂塵のエフェクトがつけられていた。この4期12話では砂塵は消え、陽光のきらめきが描かれている。オーフェンが見つけた花と合わせ、シーンの背景情報を伝えるやりかたが的確だ。
 本作はダサかったりとんちんかんな描写がなされることが多いため、こういう「ちゃんとした」描写が出てくると逆に驚く。

「いよう。噂になってるぞ。魔王オーフェン

 そうそう、本作のサルアはこんな感じでしゃべりますよね、という出だし。
 ずっとキリランシェロで通してきたサルアが初めてオーフェンと呼ぶ記念すべき台詞だが、魔王という称号がついているせいか、声音にはややわざとらしさが漂う。
 サルアはキリランシェロの名に相当なこだわりがあるのかして、原作でクリーオウに「(本人は嫌がっているから)オーフェンって呼んであげて」と言われても返事をすることができなかった。ここでオーフェンと呼ぶのは、そんなこだわりからは脱却したのか、「投げ遣り」な心持ちゆえなのか。「遺されたもの」まで名前を口にする台詞が一切ない(マジでない)のでその心情は不明である。
 ところで、第三部以降でサルアがうっかりキリランシェロって呼んじゃう場面はあったと思います? わたしは絶対にあったと思うんですよ。

「ああ。目ン玉が飛び出るような賞金もかかってる。無理もない。お前が聖域のインチキを暴いちまったせいで、この大陸は大混乱だからな」

 サルア君! どうしてそんなに清々しいのサルア君!
 ある程度の区切りをつけたとはいえ、キムラックを取り戻すという目的に有効な手立てを持てず(「勝てない」戦いを続けている)荒んだ原作に対し、空を見上げ風に吹かれるサルアの表情に濁りはない。軽妙な口ぶりや声音と合わせ、非常に効果的な描写だ。
 原作は読んでの通り、兄の死に対しては罪悪感と向き合い、ひとまずのけじめはつけたものの、キムラックから立ち去りがたく残った何千人という命を預かり、ままならなさにもがいている。おそらくサルアはそのために戻った。悪夢を受け入れるとは、きれいさっぱり忘れることではないからだ。
 ひるがえって本作では、どういう感情からこのような表情を浮かべているのかと思うとひらすらに趣深い。翻案にあたってのアレンジや描写の変更は、原作の要素を消滅させる行為ではないと思う。本作のサルアが、キムラックの崩壊や兄の死をどう考えているのかは不明だ。原作と同じような感情なのか、はたまた表情通りいっそ清々しさすらおぼえているのか。さまざまに受け取ることができ、実に想像しがいがある。

 聖域が「インチキ」をはたらいていた、というのが実態に即した物言いかといえば違うだろう。しかしここでは「キエサルヒマを覆っていた欺瞞がオーフェンによって取り払われた、あるいは破壊された」という状況を説明するに際し、サルアが口にしそうな単語として「インチキ」が選択されたのではなかろか。
 また、死の教師としてキエサルヒマの実情を知っていたサルアが、聖域のやりようを「インチキ」とみなしていたのだと考えてみると、なかなか面白い読みこみができると思う。

「俺も賞金首だが桁が違いすぎてへこむぜ」

 台詞の途中で砂を蹴る動作がつけられており、テンションがガンガンに上がった。うひょー。
 軽口の中にそういう心情を垣間見せるしぐさが描写されますとわたしはわたしは。
 原作で「砂を蹴って一刀両断に突き返すことはできな」かったが、アニメでサルアは砂を蹴るわけでありまして。

「で、その魔王様が俺をこんなところに呼び出して何の用だ」

 呼び出してというが、難民キャンプと思しき場所なのでサルア側の領域という雰囲気がする。
 オーフェンはどうやって渡りをつけたんだろ。騎士軍の襲撃を受けた難民を助けた際に連絡でも頼んだ、とかか。
 原作において、サルアの登場シーンは「出口のない状況にいるサルアを/オーフェンを、互いが偶然に/必然に訪れる」という構図が繰り返されている。「終端」では、「勝ち目のない戦いを続けるサルアを探しに(必然)オーフェンが/魔術士の噂を聞いたサルアがその目的を確かめに(必然)赴き、偶然(幸運か不運か)荒野で行きあう」というシーンだ。それを本作は「オーフェンがサルアを呼び出す」という形に集約してみせた。結果、まったくあたらしい景色が生まれている。
 原作のかたちを一旦壊し、まったくべつの景色が出てくるのは翻案作品を鑑賞する醍醐味のひとつ。

 オーフェンがアーバンラマへ逃れた難民を話題に出しているとき、サルアは動かないが顔には軽い笑みがあり、マントが風に揺れる。サルアはオーフェンの言葉にかなり注意を払っている、というか警戒しているのではないか。そう感じさせるニュアンスを帯びたカットだ。

「簡単に言うな。キムラックを、いや、先祖代々住んできたキエサルヒマを捨てるんだ。一筋縄じゃいかねえよ」

 難民が街を取り戻そうとしている(変化の逆行)ことよりも、生まれ育った場所から出ていくことに重きを置く台詞回し。オーフェンとクリーオウの船出で物語を終えるからだろう。

「奴らは俺たちを捨てていったんだぞ。いまさら……」

 原作において、サルアは自身をキムラック人だと自称する一方で、ひょっとすると難民たちと自分自身とを分けて考えている節がある。
 「終端」では(元)キムラック教徒として教会の歴史を(世界に顔を背けて荒野に閉じこもってきた暮らしを、魔術士廃絶の歴史を)「俺たちのやってきちまったこと」と言い、のちに「鋏の託宣」では開拓民を指して「彼らに大陸を渡らせるために使った手」と言う。
 サルアは、難民たちと同じくキムラックを取り戻すことを目的にしているのだろうか? ひょっとすると、キムラック人から故郷を喪わせた贖罪のために合流したのでは?
 本作は「俺たちを捨てていった」とし、サルアのスタンスを明確に難民側に立たせている。

「殺すって、本気で言ってるのか」

 いやまじで下妻さんのお芝居いいな……。
 重ね重ね、あれとかこれとかそれとかズバァとかめちゃくちゃ聞きたかった。
 俺はそんなに変わったわけじゃないとオーフェンは言うけれども、変わり果てたという認識だからこそ出てくる台詞なんだろう。クリーオウも、「変わってしまったと思っているから一人で旅立った」と考えているし。

「よく、生きてるな」

 グエー(呻吟)。
 いや、なんかこの声音というか言いかたが、なんか、はい。

 モツもそうだがヤクもなく、全般的に荒んだ雰囲気は減じている。大幅に端折らなければならないにしても、クリーオウ役の大久保さんが息を切らした演技をしていても絵のほうは声に合った表情をしていないちぐはぐさを見るに、粗多き本作かくなるべし……という気持ちにさせられる。
 本作の欠点を、わたしは原作を再現していないことのみに見出せない。むしろシーンに応じた描写ができておらず、緊張感が抜け落ちてしまっている点が問題だと感じる。

 ラストカットは風に揺れる花をとらえている。12話はほかにもクリーオウがエドを見つけた際の地面に転がった剣、騎士に襲撃された際の焚火の跡など、「地面につけられたしるし」にクローズアップしたカットが目に留まる。これはなにを表象するものだろう。


 さて、魔王の力についての問答である。視聴しての感想は「良かった」とも、「悪かった」とも、単純には言いきれない。

 「良かった」と言いがたい理由は、ダイジェストにとどまってしまっている点だ。もとより12話は原作の内容に比してあまりに時間が少ない。可能な限りきりつめているのはどのシーンも同じである。それでも力を入れるべきシーンとダイジェストになっても構わないものというのはある。どこを重点的に描くべきかについては、翻案の際のコンセプトにもよるだろう。
 また、このシーンはわたしが贔屓にする登場人物の見せ場であるゆえ、どうしてもあれが見たいこれが見たいと細かい注文が出てきてしまう。

 原作においては、作中でこれまで語られてきた人間種族の来歴や世界の仕組みが虚偽であったと明かすものから始まり、オーフェンが「扉」でなした選択、どころか彼の来し方にまつわる悔恨とゆらぎを、魔王の力についての問答を通じて描くものだ。
 設定の開陳部分をカットしサルアへの問いかけから始めること、メッチェンの腕への言及がないのは妥当な省略だろう。
 オーフェンの苦悩を十分に描写できているとはいえないのが不満だ。オーフェンは魔王の力を得て(ありは取り憑かれ)、これまでの行いの結果をすべて覆すことが可能になった。人の死を忌避し、自分がもっとうまくやれば死者を出さずに済んだのにと悔いるような人間からすれば、万能の力を手にしてしまったのはさぞかし恐ろしいだろう。
 このシーンの前段でオーフェンが延々としていた「あんな話」、つまり設定の開陳部分は、おそらく変化は不可逆だという意味合いがある。
 死を治療することは不可能だからこそ人を死なせてはならないし、死に意義を見出してはならない。訓練中に死ぬことが「無価値」で、世界を救うための死が「価値あること」だというなら、それはすなわち価値あることのためなら取り返しのつかないことを「してもいい」という意味合いが発生してしまう。
 犠牲を払わない方法を追求すれば、たったひとりでなにもかもを実現可能な万能の力として顕現し、他者の無価値化に通じる。原作は「終端」以降そのせめぎあいがクローズアップされていく。
 過去に出た死者ばかりではない。キエサルヒマを脱出するのも魔王の力があれば、それが制御できさえすれば手間と時間のかかる開拓計画もオーフェンには不要だ。他者と協力(これもいわば他者の有価値化だ)などせず、独力で外の大陸へ向かうことができる。まさにそれこそ「扉」でオーフェン自身が否定した超人で、オーフェンは「超人が――なるべくごく少数の犠牲によってキエサルヒマを守る」方策を拒んだことで自身が当の超人と化してしまった。
 図らずもやってしまってきたこと/望みながらかなわなかったことへの苦悩、そしていまなお抱える制御できない力に対するおそれ。おそらくそうしたものを「死者の蘇生」という形で口に出したのだ。

 ところで、死んだ人間というのは特定の誰かを指すのだろうか、それともオーフェンがこれまで立ち合ってきたり、キエサルヒマ戦争での死者など広範囲に渡るものなのだろうか。
 アザリーも念頭に置いているのは、メッチェンを引き合いに出していることからも確かだろう。オーフェンにとってのアザリーがそうであるように、サルアにとってのメッチェンも「助けることのできない年上の女」だ。「常に考えざるを得ない」とは、なにもオーフェンがメッチェンの負傷を気にかけているのではなく、アザリーの死を取り戻したいという意味なのではないか。あるいはサルア自身がメッチェンの負傷を気にしているからこその思考かもしれない。
 そしてサルアは、メッチェンが腕を治すかどうかは彼女自身が決めることであり、余人が決めることではないと答えた。ならばアザリーがみずからの意思で召喚機を動かす犠牲となることを決断した以上、彼女を蘇生させるとはアザリーの「誇りを奪」う、ということにもなろう。
 そしてこの場にいないもう一人の死んだ女、ロッテーシャにもまた死の直前に遺した言葉がある。クリーオウは当初その言葉を取引材料として「利用」しようとしたが、答えを伝えないという彼女の意志を優先し、利用しなかった。
 ところでこのくだりは、第一部・第二部に通底する「他人を助ける」ことへの懐疑的な視線に連なっている。他人を助けるとは、つまるところ相手を自身の思い通りのものとすることではないのか?
 第四部に入ると仕掛け絵本のごとくまた様相が変わる。「終端」ではアザリー、「鋏」ではクリーオウがメッチェンと文章に出ないまま対比されており、主人公であるオーフェンは「助けない」ことで女の意志を奪わないことが確認される。しかしこのことは密室で男たちが女をどう扱うかをめぐる問答を行うことによって描写されている。他人の、女の誇りを侵害しないという確認がなぜそのような描写だったのかと考えると、わたしにはここで「尊重」という語を用いるのがはばかられる。

 本作は、特に1期・2期が原作の要点をとりこぼしていたし、3期・4期もせいぜいが破綻なく省略できた、にとどまる。そこへきて「終端」を1話でやる無茶も重なり、オーフェンが旅路の中でなにを見てきたか、そこからなにを選択するに至ったのかを描写できていない。ために、サルアの説教は「最低限必要なシーンをこなした」という印象になった。
 これは2期9話でのマジクへの説教にも通じる。あのシーンも、きりつめているのはいいとして、そこへ至るまでのマジクのドラマを構築できていなかった結果、なにを描いているのかが不明瞭だった。
 なぜマジクはオーフェンに反発(ともいえないようなささやかなものだが)し、サルアに諭されてどんなことに思い至ったのか。それを受け手に伝えるには、マジクの葛藤や困惑を説教シーンの前段階で描いておかなければならない。
 マジクは、首根っこを押さえつけてくるクリーオウにこっそり自負心をのぞかせつつも、はじめは強力な魔術に関心を見せていなかった。数々の事件からおのれの無力さを痛感し、独力でなにかをなしとげたい、事態に対処できるようでありたいという切羽詰まった感情が芽生えることになる。マジク自身のずば抜けた成長ぶり、オーフェンの師としての未熟さもあいまって、マジクは知らず知らず危うい状態に陥ってしまう。
 サルアの説教は、力の大きさよりも重要なのは目的達成への意志であることを悟らせるものだ。マジクは自分自身がなにを学んでいなかったのかを知り、それを踏まえたうえでオーフェンに師事したいとあらためてスタート地点に立つ。

 省略されているのはオーフェンのみならずサルアも同じで、信仰の試しも力の誘惑(他者の、この場合はメッチェンの身体や意思をも自由にできる誘惑)も本作では言及されていない。
 また、原作では冒頭で兄の死に対する心情や元教師としての責任感が描かれている。サルアにもオーフェン同様、身近な人間の死や暮らしてきた社会の崩壊に図らずも手を貸してしまったことへの後悔と自責の念があると示すものだ。
 オーフェンの問いかけが、「物の道理を求めて」とか「議論がしたい」とかではなく、「自分自身に言い聞かせようとして」なされたものならば、サルアの答えも彼自身に言い聞かせたものだったのかもしれない。もしキムラックが崩壊していなかったら、同じことを問われても返答は違った形になっていたのでは、と想像をはたらかせてみる。
 とはいえオーフェンによる結界の破壊がもたらした戦争、キムラック教徒の難民化があったがゆえに両者の間にこのような場面がもうけられたのだ。違った状況ならばというのは詮ない話である。

 魔王の力にまつわる問答は、このシーンで完了せずのちに「鋏」まで続いていく。面白いのは、サルアはあのように答えたことで自分自身が追いこまれていったのでは、と読めるところだ。サルアは、難民の命をたてにとったような開拓計画を持ちかけられ、怒りをみせた。一方で、オーフェン自身も窮地にあることを知って彼が答えを出す手助けをした。
 ここで両者の縁が途切れたのなら「いい話」で終わったのだろうが、彼らのつきあいは二十年以上も続いていくことになる。
 サルアの答えはうわべだけの言葉ではなかっただろう。おそらく彼自身の切実な心情に基づいてのものだった。それでもオーフェンを手助けした言葉はサルアにとってはむしろ彼の方向性を決定づける、束縛としてはたらいたのではないか。オーフェンへ向けた言葉通りのポーズを取り続ける必要に迫られたのではないか。なぜならかれらの友人関係とは、相手の望むものを与えるような形と見えて、妥協と対立、協力と収奪、果てのない貸し借り抜きには成立しないものだったからだ。
 オーフェンとサルアは共通点を持ちながらも、「本質的に反りの合わない」者どうしなのでは思え、サルアはみずからの言葉を反故にし、オーフェンはそれを糾弾し、ために両者は決裂するに至った。

 話を戻す。サルアの心情が省略されるのは個人的には残念でこそあれ、妥当だと思う。繰り返しになるが、ここではオーフェンの苦悩を描くことがより重要だ。
 注文をつけるとすればサルアの様相のほうだ。笑みを浮かべ、軽妙な口調にオーバーな身振りをつけて語る。おおよそ一般にイメージされるだろうサルアの振る舞いだ。
 念のために言っておくと、これもまたサルアというキャラクターが確かに持つ一面だと思っているし、原作の文章から変更したイコールだめな描写だとは考えていない。ただ、原作「終端」はそれまで描かれてこなかったサルアの新たな一面、「背約者」後の経験を経ての変化に触れることができ、読者としてそれがとても嬉しかった。ので、本作も単なる要約に留まらずそれを受けての描写だったら、とはつい望んでしまう。
 とまれ、本作における魔王の力についての問答は、悩み揺らいでいる人間を、普段は軽薄ながら芯の部分はまじめな人間が励ます、そういう場面になっている。

 そしてもうひとつ。アニメ化においてこのような描写がなされたことをなぜ「悪かった」とは言えないのか。このシーンの役割は「オーフェンが魔王の力という厄介な代物を抱えこみ、それにどうつきあっていけばいいのか悩んでいること、サルアは肩の荷をひとつくらいは落とす手助けをした」と受け手に伝えるよう描写することだ。
 繰り返してきたように、省略の結果として不足はあるもののそれでも最低限の描きこみはできていたと思う。だから、粗っぽくはあってもそれを「まずい描写」と一言でかたづけるのは難しい。また、わたしが原作を読んでイメージしたものと異なるのは単に「異なる」というだけの話であって、「間違った」ものでもましてや「悪い」ものでもない。


 他、台詞回しの差異なども見ていこう。

 ホテルの一室でタイプライターに向かうオーフェン。明かりがないのは演出上当然としても、暗がりで打てるのか? と揚げ足を取りたくなる。
 オーフェンの目を見せないようにしているので、コルゴンと対峙する際に目を青くするのかと思ったのに、それはやらなかった。
 サルアがスーツ姿でないのは作画の手間を省くためなんだろうなあと推測しつつ、その私服の構造が気になるのでちょっとマント脱いでいただけませんかって思った。

アニメ「なあ。死の教師であるお前に、教えを請うてもいいか」
原作「教師のお前に訊いてもいいか」

 秋田作品において、問うことと答えることはシリーズを問わず頻出するおなじみのモチーフである。アニメでは「教えを請う」となり、サルアが教会の神官であることに重きが置かれている。またわざわざ死の教師としたのは、対魔術士の戦闘訓練を受けた人間というより、殺し屋である彼に、というニュアンスだろうか。

「本当に? 慎重に答えろよ。誓えるか」

 オーフェンになにを書いているのかと尋ねる台詞から始まり、サルアは一貫して口元に笑みを浮かべ、余裕あるおもむきといった様子だ。明かりを落とした暗い部屋の中、サルアは月明りの側に、オーフェンは影の側にいる。前述したように、精神的に安定した人間が迷いの中にいる相手を助けるものとしての表現だ。
 原作ではサルアの表情や口調の記述はほとんどないものの、サルアのこの台詞はそれこそ「倫理を冒涜する罪」を犯したかを質しているので、深刻な態度だったのではと思える。
 ところで、ここの「本当に?」は「背約者(上)」での「魔術士は無意味に殺人なんてしない」「本当に?」にかかっているんじゃないだろうか。

「俺には止める権利も義理もねえが、それをしたらお前はもう人間じゃあねえし、お前の機嫌を損ねたら生きてられない世界に生きる俺たちも人間じゃあなくなる。」

 ソファから立ち上がり、腕を大きく広げながら台詞を述べ、窓辺に立つ。思ったんだが、このくだりは「原作通りに」やると動きがないし、登場人物の表情で見せるにもオーフェンの顔を映さないように作ってある。画面に変化をつけんがため、サルアはオーバーな身振りとそれにともなう軽妙な語り口をしているのではないか。
 ところで、この台詞ですこし気になったところがある。音として「お前の機嫌を損ねたら生きてられない。世界に生きる俺たちも」くらいの強い切れ目が入っているように聞こえた。「生きてられない世界に生きる」とひとつながりか、「生きてられない。そんな世界に生きる」とかだったら引っかからなかったと思う。アフレコのあとでコマに合わせて台詞を調整したのだろうか。

アニメ(そんな重いものを背負って生きるガラじゃ、ねぇんだよな)
原作「ガラじゃねぇんだよ。本当にな」

 原作においてこの章は、ガラではないと繰り返すサルアのモノローグから始まり、ラストでサルアは同じ言葉を今度は声に出して言う。実はいまだにサルアの台詞をどう読めばいいのかわからない。素直に読めば、直前のオーフェンを心配しかけた彼自身の心の動きについてではあるだろう。思うだけですませず、声に出したのはなぜなのか。
 サルアにそのつもりはなかったかもしれないが、ひとりごとのように口にした彼の台詞はオーフェンの台詞「ありがとう」への返答としてもあの部屋に響く。退室する前に言っているからにはオーフェンの耳にも届いているはずだ。
 オーフェンには、サルアが「ガラにもなく問いに答えた」と言ったように聞こえたかもしれないし、サルアもそう聞こえるようにわざわざ言った可能性はある。とはいえ、サルアが説教大好き人間だとはクリーオウに見抜かれており、オーフェン自身もサルアの乱暴な態度は説教という行為への照れ隠しだと
すでに気づいている。だからサルアの台詞を額面通りに受け取ってはいまい。
 冒頭でサルアが「ガラではない」と述べる数々のことは「やらねばならないのだから仕方がない。やるだけだ」と結論づけられる。一方、「問われれば拒むことはない」という。なぜなら教師とはそういう生業だからだ。
 「終端」から十数年後に書かれた「帆走の彼方へと」でも、率直な心情の吐露を受け止められたことへの礼のような言葉をオーフェンは口にし、サルアはそれに対し気にするなと答える。それを考えれば、「終端」における「ガラじゃねぇんだよ」もそのたぐいと読めるだろうか。

 本作、スタジオディーン版では声に出さずモノローグとし、またオーフェンの苦悩への感想となっており、趣を異にしている。
「サルアさんや、後方古参腕組み面ってやつですか」などとおちょくってもいいが、まじめに考えてみることにする。
 一連のシーンを「サルアがオーフェンの苦悩を受け止め、手助けする」意図で描写しているだろうことを考えると、サルアはオーフェンの理解者であることを表そうとして、オーフェンへ向けた台詞に変更したものと思われる。
 ただ、本作はまがりなりにもオーフェンという主人公は悩める青年だ、ということを4クール通して描いてきた。魔王の力を得てしまい苦悩していることを「ガラじゃない」と評するのはズレている。
 サルアを余裕ある態度で動かしているのだし、ここは「ガラでもなくまじめに説教をしてしまった」という台詞にしてもよかったのではないだろうか。もしくは、「荷のひとつくらいは肩から下りたのだろう。」を採用してもいい。
 よくないアレンジだ、とまでは思わないにしても中途半端だと感じた。


 EDの、メッチェンとふたりで荒野を歩くカットが旅姿だったり、船のシーンにいなかったからかして、サルアとメッチェンは船に乗らなかったという感想が散見された。わたしはそうは受け取らなかったが、そのように見えるカットだとは思う。
 しかし仮にふたりが開拓船に乗らなかったとすると、原作の展開を変更する意義がなさすぎるように思う。本作に原作から変更された点は多々あれど、展開が大幅に異なるのは1期「狼」編でフィエナが村に残ったくらいで、それもストーリーラインに沿っての変更だった。フィエナが村に残り、指導者となることを選択するにいたるまで適宜台詞や心情も変更されている。
 この4期12話では原作通りにオーフェンがサルアを難民の指導者として勧誘に来ているし、言われている通り開拓戦の出発後ふたりで旅に出た、と変更したとすればさすがにつじつまが合わないのではないか。
 本作が変更を行う際は、原作の描写のえぐみをやわらげたりとか、尺に収めるための省略というパターンがほとんどだ。結果、原作のユニークさが消えて陳腐になったり、奥深い表現ができるところも単純化してしまっていたりはしても、ストーリーを変えるところまではしていない。ので、サルアたちがキエサルヒマに残ったと描こうとするなら、一応はそれなりのアレンジを施すのではないか。
 むろん、わたしの見通しが甘いだけであり、そのように変更した可能性はある。なにしろ本作はスットコドッコイであるからして。
 カットの着想元はおそらく「背約者(下)」エピローグだろう。登場人物たちのその後、という風合いのEDなのだから「終端」とじこみカラーのほうがふさわしいし、チョイスをあやまった、というあたりではないか。レティシャとフォルテも私服姿だし、サルアとメッチェンもスーツとワンピースでもよかろうに、というのはわたしの欲目である。
 あえて船に乗らない展開にするとしたらスタッフに「鋏」のあれが(というかあれにいたるまでの二十数年が)起きてほしくない人間でもいたのか。まあ確かにサルアはオーフェンとここで縁が切れたほうがのちのちいいかもしれないが。仮にわたしが制作に関われてもそこまではやらない。むしろサルア君におかれましては「鋏」には絶対に到達してほしい。


 閑話休題

 荒っぽいのは如何ともしがたい。が、こんなものだろう(たった一話で「終端」をとなれば、どんなスタッフでもかなりの力技でやらざるをえないと思う)と視聴していたら、オーフェン対コルゴンのラストカット、EDでのスクルド号とレキの縮尺に「ついにこの枠から抜け出ることはできなかったか……」という感想を持った。

 怒りと共にキリランシェロの名を叫びながら攻撃をしかけるコルゴンは、「このバージョンのコルゴンはこうなんだな」と受け止めたし、そも原作でも怒声を浴びせるなどコルゴンはかなり感情が乱れているのだ。
 ややスローで格闘させながらふたりの会話を重ねるのは、キマっているとはそりゃ言えないにしても、「受け手になにを見せたいのか」という工夫の産物ではあるだろう。
 それでも、相討ちとなって地に倒れる両者を真上からとらえるカットの締まりのなさはいかがなものか。激しい戦闘を描くのは難しいにしても、その結末を余韻を表現すべきカットでこのていたらくでは……。

 3期以降、小物や背景と人物の縮尺のおかしさは見られなくなっていたのが、とうとう最後の最後で復活した。わたしの感覚の問題で、ひとによってはおかしなふうに見えないかもしれない。とはいえ、せっかく改善された点がなぜここで戻るのかと首をかしげる。これが本作のいわゆる「通常営業」というやつなのか。


 ラストといえば、ボルカンがやいやい騒ぎ立てているのに船上のオーフェンは「見送りに来てくれたのか」とのんきなことを言っているのはいい描写だなと思った。地人兄弟はどう考えても見送りに来るほどオーフェンに関心を持っていないし、ましてドーチンはともかくボルカンがそんな殊勝さを持ち合わせているだろうか?
 オーフェンは読者から「他者評価が高い」と言われることがあるが、それは一面、他人が自分の都合のいいように動いてくれると思いがち、という形で発揮されることがある(第三部以降、サルアに対してもそういう態度だったにちがいないとわたしは確信している)。
 原作では離れゆくキエサルヒマの岸を見つけるオーフェンの視線で終わる以上描写できなかった、地人兄弟の姿。本作はコミカルなボルカンとドーチンのやり取りを見せることで、軽妙さを感じさせるラストシーンで締めくくることができたと思う。


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 3期主題歌の一節にいわく、「目を逸らすな」。わたしはといえば、だらだらとソリティアなぞプレイしながら視聴していた。つまり目を逸らしまくっていた。
 これはわたしが集中力を著しく欠いた人間だからで、そうでもしないと視聴できない作品だったという意味ではない。それどころか、本作は不出来だからこそ視聴を続けられたとさえ思う。
 評判の作品が放映されるというので録画したはいいものの視聴せずじまい、ついにはHDDの容量を圧迫するので削除する。あるいは、やはり話題になっている書籍を買ってもそのまま放置する。元気なときに見よう、読もうと思っても手に取るときはずっと訪れない。そういう人間に、ながら見でも支障ない本作は都合がよかった。
 また最近思い至ったのだが、視聴環境が安モニタだったことは映像面への評価に影響したかもしれない。テレビ画面で見ていたら、もっと粗が目についたということもありうる。


 総合するに、好意的な感情はもちろん拒否感もわかない作品だった。
 3期・4期は驚くほど改善されたし、ライアンやプリーニアは声優の演技が聞きどころで本作の美点に数えられる。キャストが発表された際は「領主に石田彰は安直では」と思ったが、いざ登場するとさすがベテランの技で自らの不明を恥じた。
 美点は少ないながらもある、あるけれどもことさらおおげさに褒めるのは失礼というものだし、わたしにとってそれらは「欠点をさておくとしても強い魅力を感じる」ほどではない。 かといって、不出来さを嘆くほど感情に響いたかといえばそれも違う。本作の場合、完成度はわたしの感情に好悪いずれもあまり影響しなかった。以前言ったように、視聴している際はくさくさした感情になることもあったが、見終われば忘れてしまう程度だった。残念だとは思うがそれだけだ。
 感想文を書くにあたっては、そのあたりをなるべく率直に書くようこころがけた。ある描写を見てどう感じたか、その理由はなにか、というつまり感情の説明文だ。インターネットでは、というかSNSではとかく過剰な表現が一般化している。俗語やミームはわたし自身もたびたび用いるが、何年か前からそういったものに頼りきりでは思考が雑になる一方でよろしくないと考えるようになった。雑だけならまだいいほうで、ミームのたぐいが攻撃的、侮蔑的な性質を備えることへの麻痺は警戒すべきだと思う。
 感情のメーターが「1」動いたら「1のぶんだけ面白かった、つまらなかった」と表現すればよく、わざわざ10とか100とかむやみに膨らませる必要もなかろう。むろん、100動いたときはそのように言えばいい。
 本心から作品への愛着が傷ついたと感じたならそのように言いもしようが、違う以上嘆く感想を書くのは不誠実になってしまう。


 1期5話の感想文を書いたのが2020年2月。思ったよりも長丁場になった。第二部アニメ化を知ったときに「さすがにつきあいきれへんで」などと言いつつモチベーションが続いたのは、やはりサルアが登場するからだ。
 サルアの出てくる作品はどういうものだったのか、そこにおいてサルアのキャラクター造形はいかに描き出されていたか、視聴するわたしはそれを目にしなにを感じたのか。これらをなるべく細かく言葉にしておく必要があった。

 本作のサルアについては、1期6話がよかったせいで以降の描写に不満はないけれども、あれを越えるものがなかったことにどうしても一抹の物足りなさはある。6話の出来も1期の中ではまだまともとはいえ残念ながら良くはない。それでも以降サルアが出てくるたび「あれくらいのものがまた見たい」と注文が出てくるほどにはよかった。
 ツラの出来が極めてイケ散らかしたカットは言うまでもなく、展開に沿った台詞のアレンジ、ちょっとしたカメラの動き、カットの端々で変化する表情、そして繰り返しになるが下妻さんの演技。
 いい作品だったとは口が裂けても言えないが、翻案されたバージョンのサルアを鑑賞する機会には恵まれたし、その甲斐はあった。