サルア君、アニメに出る(1期5話)
「『オーフェン』がまたアニメ化される」「アニメ化されるとどうなる」「知らんのか」「サルアが動いてしゃべる」
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第5話「ディープ・ドラゴン」
サブタイトルは原作「狼」第2章から。
原作「機械」のマジクが驚異的なスピードで魔術を習得しているシーンを5話冒頭に置き、対ディープ・ドラゴン戦への前振りに。
クリーオウの水浴びを除く芝居がにやけた笑いである一方、マジクの表情はさほど変化していない。声と絵から受ける印象が異なる、ちぐはぐした場面になっている。「デフォルメしたコミカルな表情+にやけた口調」か、その逆に「淡々とした表情+そっけない口ぶり」など、ニュアンスを合わせたほうがよかったのでは。
またこの場面は、エロと暴力を不可分なものとして描く秋田作品の特徴と、マジクに対するクリーオウの横暴な態度があって成立すると思うので、クリーオウの言動がおとなしい本作ではそれなりのアレンジが欲しかったところ。
横暴であるからといって、水浴びを覗かれてもいい理由にはならないのは大前提として、「異性の裸に興味があるから覗いた」と若い女性の裸は「良いもの」という素朴な認識にのっとった描写にせず、「腹いせに覗きという暴力をはたらいた」としたのは秋田ならでは。
ところで、教わったことや目にした構成を再現するのではなく、「水浴びを覗くために光の屈折が必要だと理解し、その構成を独自に考案してなおかつ実現させている」のだから、マジクの実力はかなりのものといえる。
死角=認識の隙間は必ず存在し、なくすことはできないのが秋田バースの原則と説いて、死角を眼前に展開するマジクの魔術の意味合いと説く。そのこころは、そちらに意識を向けると目の前にいるオーフェンを認識することができない。
3年4か月かかった、という地の文をオーフェンが台詞として声に出したため、自負心抱いております喃、というあんばいに。
オーフェンの服を拝借するクリーオウとマジク。今回のアニメで初めてちゃんと機能した「工夫」だと思う。
マジクがタンクトップをオーフェンから譲ってもらったことで「コミクロンズ・プラン」と合致(草河先生知ってたのかな)。
原作でクリーオウは「他人の服を借りたがる」「マジクの服を勝手に寸法を直して着ている」とあるのを生かしている。ふたりがオーフェンの後を追う性質を表わしたものか。
森でアスラリエルと対話するフィエナ。アスラリエルがマクドガルを見張る理由を「最終拝謁の様子を知ろうとした」から「聖域へ向かわんとすれば殲滅するため」に変えたため、「まだわからぬのか」の意味が不明瞭なものに。
巷で料理下手のイメージがついているクリーオウだけど、言われているのは普段のものではなく報復料理のことだよね。
5話はマジクの表情がくるくる変わって可愛い。スクワット五百回(原作では千回なのでアニメは優しい)をぼやいて頬を手で包んでいるところは一等賞。
細かいが、食料を探しに夜の森へ出ていくというのは危ない……というか不自然に見える。というより、夕方に森の入り口に差しかかる→水浴び→馬車で移動(ここまで日没前)→夕食(日没後)、という時間経過がせわしない。大きな瑕疵とまではいえないが、本作では時間経過の描写やシーンの切り替えにひっかかりを覚えることがこのあとも続く。振り返ってみれば、5話のここは違和感がまだしも小さいほうだ。
表現において時間経過という整合性を捨てる、という判断じたいは「アリ」。しかし本作でそれが功を奏したケースはいまのところ見られない。
フィエナとマジクの会話は、うまく危機を伝えられないフィエナと、逃げろと言われてもぴんと来ていないマジク、というのが秋田作品あるある。
そういえば、原作にある「女神(ウィールド・シスターズ)そのものが、なんらかの神に捧げられた巫女のようなもの」という設定はまだ残っているのか、それとも放棄されたのだろうか。なんらかの神とはおそらくスウェーデンボリーだろうが、「捧げられた」というのが気になる。巫女とは神からの託宣を受ける存在として、さて……?
教会を指して「あんな連中」ということは、マクドガルは教会に失望しているのだろう。彼が魔術士の絶滅を実行できる力を求めていたことを考えると、教会が内に籠るだけで、なんらの対抗策も打とうとしていないことにか。
原作のフィエナはマジクを逃がそうと思いながらもマクドガルに見つかってからは従う態度を見せるのに対し、本作ではマクドガルに口答えし、マジクを庇う。このエピソードを通し、フィエナの「怯え」はオミットされている。
「その連れなら、ちゃんとお迎えが行ってるさ」
……いきなり喋らないでください心臓に悪いじゃないですか。
この場面、毎回「ヒィッ、喋った!?」ってびくついてたのが30回くらい再生してやっと平静に見られるようになった。
にしてもサルアさんや、その服装はいったいぜんたい何じゃいな。原作にあるのは「よれよれのシャツにバッジをこそげ落としたレンジャージャケット」、にもかかわらず今回お召しになっているのは「ぬののふく」、防御力が落ちているのではなくて?
先だってのパズドラコラボがきっかけで、「楽園(上)」挿絵や「悪魔」表紙でクリーオウがスレイクサーストにピンクのリボンをつけていることに初めて気づいたが、本作では実家から持ち出した剣もリボンつき。
凶器(農具)を持った集団に襲撃されていることよりも、豆スープをひっくり返したことに意識が向くなど、危機感というものをまったく持てないのはさすがクリーオウ。
ところで「武器持ちか」のとこの我らが主人公氏の襟元、なんかやけに色っぽくない?
「やめておいたほうがいいぜ、フィエナ」
……いきなりドアップで映らないでください心臓に悪いじゃないですか(胸を押さえながら)。
キャー! サルアが枝を踏んで折ったわ! すてき!
「月謝払ってるんだからちゃんと魔術教えろー!」
原作の台詞をそのまま使うのではなく、それまでの会話を踏まえたものに変更しているのがいいですね。
空中から出現したかっこうになった蛇は、製品版ではちゃんと魔術で枝を折って落下させたと修正されてるといいな。
「逃がすかよ!」
ナイフを構えるサルア君、銃声が響いてびっくりぎょうてん。
助けてもらって文句言うな、の台詞と、吊るされた村人のカットに間がないので、「吊るしたあとで疑似球電ぶっぱなしたのか?」と勘違いしてしまった。
マジクの救出に向かう際の会話は、クリーオウの横暴エピソードをなくしてオーフェンの言動を補うものに変更している。アスラリエル出現時も、オーフェンの指示に従ってすぐレンジャー詰所へ向かうのだが、まず最初に「なんでわたしだけ!?」と反発する台詞を入れ、ただ聞き分けをよくするのではなく、彼女の性格を残しつつシーンが引き締まったものになっている。
「我らが主よ」
実をいうと「我らが主(あるじ)よ」だと思っていた。あなたはどっち派?
サルアはオーフェンたちを襲撃に向かったグループが戻ってこないと報告を受け、警戒するよう指示する。原作でも「厳命しておいたからな」という台詞があり、村での彼の役割は戦闘についての訓練を行うものだったのではなかろか。
「様」づけ、まあ笑ってしまうんだが、のちにサルア様って呼ばれてもおかしく…なくなり…ううううう(あごにしわを寄せる)。
行き着いた村で怪しげな商売をしようとするボルカンは、「亡霊」から拾ってきた描写だろうか。強いものには媚びへつらい、しかし人目がなければ即てのひらを返す、それこそがまさにボルカンである。
以前の回想シーンではルーン文字(?)を出していたのとはうってかわって、クリーオウに説明する際にアルファベットを用いるオーフェン。ファンタジー小説だからとへたにそれっぽい雰囲気を出そうとせず、アルファベットを採用したほうがこのシリーズには合うと思うんだよな~。
最初は現場でプロップデザインなどの周知徹底がなされていないのかなと考えていた。が、1話から3話の「獣」編にあった名前のテロップ表示やナレーションが「狼」編では見られないことなどからして、なんらかの方針転換があったのでは――というのはただの邪推、妄想である。
オーフェンの肩にナイフが刺さるところは、サルアが「夜目で、しかも自分と相手の間には複数人がいるのにナイフを投げて命中させる」という、高い技量を持つことがわかる重要な場面です。
原作でのこのくだり、オーフェンはサルアのにやにや笑いに「そのくらいじゃ、まさか倒れねえだろう?」という挑発を読み取っている。しかし身をよじっていなければのどに刺さっていたらしいので殺意は高め。
続けてナイフを構えているので、サルアはナイフを複数、最低でもふたつ所持している。ここといい、地人兄弟をからかうシーンといい、5話のサルアはさながら投げナイフ使い。
ディープ・ドラゴンを前にしての緊張した面持ち、あっけにとられているところなど、本文には記述されていないものの確実に浮かべていたであろう表情です。伏して拝もう。
アスラリエルがわざわざ姿を見せたのは、フィエナの「マジクを取られたくない」という咄嗟の望みに呼応してのことではあるまいか。精神支配は「相手を思い通りにする」術ではなく、五感の共有、主と客の混濁こそがその実態である。レキがクリーオウの望むままに暗黒魔術を行使するのと同様、自我のないアスラリエルはフィエナの望みに引きずられる、というのがこのシーンで起こったことなのでは。ディープ・ドラゴンの「自我がない」とは、やりたいことがない、望むことがない、という意味に読めるのだ。
(初出・2020年3月22日。加筆修正のうえ投稿)