「ハーティアズ・チョイス」特典「いつぞ、死の教師は」感想

 本編についてはひとことも触れていない文章です。

 

 まずどういう順番で読めばいいのか戸惑い、最初は変な読みかたをしてしまった。
 一読してまっさきに出てきた感想、「また秋田が同人小説書いてる」。いや作者そのひとの筆で好きなキャラの「風邪ひいてガウン姿でストレスから激ヤセしてソファでふて寝するすがた」を書かれた衝撃には遠く及ばない。大丈夫。大丈夫(胸を押さえながら)。
 時節柄電子書籍を購入するつもりでいたのを思い直した過去の俺、よくやった。

どのみち彼が否定したのは、そんな話でもなかったが。

 クリーオウがサルアを評しておっさんくさいと宣ったのを印象深くとらえていた読者はままいるのではなかろうか。そのように言われたのはここのみなのに、Wikipediaでは「実年齢よりも老けて見られることが多い」と書かれるしまつ。今回にいたってはめでたく子供から「おじちゃん」と呼ばれることに。クリーオウはサルアの外見よりも言い回しから、そう言っていたと思うのだが。

深刻な脅威

 斧やノコは農村であればそれこそ「大工道具」、日用品の類だろう。しかし剣は違う。武器の携行は暴力の意思表示であり、剣を目にした人間に殺人を予感させる。だがガラスの剣は脅威でも、本当にあるべきものでも、啓示でもない。

極めつけの不機嫌面

 「狼」では子供に怪談を聞かせて飴玉を巻きあげるなどの所業に及んでいたサルア・ソリュード氏であるが、子供を追い払いたかったのと任務に対するモチベーションのなさなどもあり、剣呑一辺倒。

ほとほと切れ味の鈍いこの剣

 ガラスの剣は死の教師の象徴……。そしてどこかの誰かが称されている「razor edge(鋭い刃)」に対して「切れ味が鈍い」んですよおわかりになりますか??? わかりませんが???

泊まる部屋代

 サルアが実家暮らしを続けているのを見るに、死の教師はお給料が低いのでは、と思っていた。ひょっとして、必要経費もあまり出ないのかもしれない。もっとも、サルアは漫然とぶらついていたようなのでその間に使いきった可能性もある。

感情の壊れたようなその態度

 サルアから見ればこう映るのか……。

見れば見るほど殺し屋らしくない

 コルゴンから見ればこう映るのか……。
 にしても、脅威でも、啓示でも、それらが指し示す「殺し屋」でもないのなら、サルアはいったい何者なのか。このエピソードにおいてサルアは自身を「教師」だと規定する。

キムラック教会の敵となるのはただひとつ

 教会は魔術士とも貴族連盟とも対立している。しかしネイムの言から考えるに、天人種族の寵愛を受けた王室と、天人種族の遺伝子を保有する魔術士は「神々の怒りを買った」という一点で同じものとみなされているのかもしれない。

骨という骨から肉を削ぎ落せる

 魔術の能力を描写するのに、なぜこの表現を用いたのか。サルアは武器でもって、つまり剣で骨を叩き折る手法を好む(「肉を切断する鋭利さ」ではなく)ので、気になってしまう。

暗殺者という役職

 執筆時期による表記揺れなどもあるので厳密ではないかもしれないが、地の文においてサルアは「殺し屋」と表記される。「暗殺者」ではないのだ。政治家、権力者の立場に就いたサルアはまさしく人間を殺すのが仕事(≠技能)、ともいえようか。

世界から罪を浄化する

 歪んだものを糺してまわる、を連想した。

こけおどしのガラスの剣

 やめて!!!(悲鳴)
 家に対する疎外感をほのめかしつつ家が収集した武器を整頓し、しかしサルアがあえてずっと携えていたのは、これがあればクオにも対抗できると語っていたのは……やめて!!!!!(悲鳴)
 サルアは自室の地下に、ソリュード家が蒐集した数多の武器をきれいに整頓していた。そういう几帳面さを持ち合わせながら、地上部分はクリーオウが絶句するほど散らかしている。「狼」で寝泊まりしていた部屋もわざと散らかしているように書かれており、自室の惨状も同様なのだろう。
 人の目に触れる地上部分を乱雑にし、開けづらいが鍵はついていない扉の下に整頓された地下部分を隠し持つ描写も、サルアの人柄がいかなるものかの裏付けに思えてならない。本シリーズでは「鍵のかかった部屋」というモチーフがしばしば登場し、サルアが地下室に鍵をつけていないのもその点で読めば面白いような気がする。 
 定番の冗談として、「逃亡したマクドガルを狙うのになぜわざわざガラスの剣を」と何度か言っていたので、「フォローすみません……」という気持ちが勝手に湧いて出た。すみません(ステージ上のアイドルと目が合った!と騒ぎだすファンのような言い草)(もしくは陰謀論者)。もともとわれらが作者どのはメッチェンにガラスの剣の有用性を否定させていたのではあるが。
 これほどけちょんけちょんに言われていると、2020年版アニメの安っぽいエフェクトも様になっている気がする。

苦味だ。

 サルアの望みは苦い。コルゴンから交渉をもちかけられても望みという言葉が自身に馴染まないほど苦く、また呑みこむには痛みをこらえなければならないほどに。
 コルゴンが交渉下手なのもあるが、おそらくこのときサルアは「死の教師を追跡してきた謎の男から取引(普通の意味で)を持ちかけられた」と思っていない。いま、サルアは都市外任務を無駄なあがきと感じて漫然と過ごし、その行動を言い当てられ苛立っている。そこで彼が「望み」という言葉から思い浮かべるものはなにか。

次第に速度を落として、

 このときのサルアは「狼」や「背約者」で見せた、だらだらした歩きかたではなく、「終端」のときみたく正確な歩幅ではないかという妄想。

ほとんど殺し屋

 殺し屋と、殺し屋でないもの。

「兄さんを殺して」

 モチーフの満願全席。

子供の顔と腕、足とを見て取った。

 児童虐待という事象があると認識されており、対処は正規の訓練を受けた熟練者でも難しいという意識のある風なキムラック、実は近代的なのでは?

「兄ちゃんはなんにも悪くない。」

 ミ゛ャ゛ッ゛(悲鳴)
 最大級に神経を引き絞られたのはこの一文だ。
 ゲストキャラクターである子供は、家族を「兄さん、父さん、母さん、姉さん」と呼ぶが、ここのみ「兄ちゃん」となっている。さしたる意味のない、表記揺れかもしれないが、わたしには「背約者」後のサルアの声に聞こえる。
 いや絶対にサルアは少年時代ラポワントを兄ちゃんって呼んでたでしょうそれ以外に呼びかたあります?????

正気ではないが合理的だ。

 秋田作品には「兄を失う弟」が何組か登場する。
 「エンジェル・ハウリング」では今作と同様、弟は自らが生き残るために兄の命を狙うものの兄は彼の意図とは無関係に命を落とす。
 「機械の仮病」は、解釈は迷うところだがソリュード兄弟になぞらえれば「双子の兄に助けを求めたが跳ねのけられ、その死を望んだ」ということになるだろうか。
 そしてサルアは「兄に助けを求めて受け容れられ、結果兄は殺された」のである。
 「兄さえいなくなれば自分自身の生存(尊厳)は守られるのではないか」という、一見合理的でありながら兄を求めずにはいられない非合理な願望……。

(そんなに甘いわきゃなかったってことか……)

 この箇所、すごく甘い味がする!!!!!

あるべき者であったら

 一読するとサルアは、自身がまともな信仰心がないから啓示になれないと考えているようだ。だがもっと言えば、それこそ「兄のようではないから」が真の理由ではなかろうか。だからオーバーに「奇跡を起こしてみせるだろう」と皮肉ってみせる。前述の「機械の仮病」に登場する小泉兄弟との違いはここで、双子の彼らが全く同じに見える一方、ソリュード兄弟は(おそらく)少しも似たところがない。
 「兄」なるものは超人なのだろうか?

と、サルアが差しだしたのは剣だった。

 こけおどしと皮肉り、切れ味も鈍くて使いづらく、抜けば一目で正体がばれるとわかっていながら、それでもずっと携えていたガラスの剣をためらいなく!

「説教らしいことが言えそうだから」

 ……兄が説教屋だからああはなりたくないんじゃなかったんじゃないんですか。いえわかっているんです、兄のようにはなれないとわかっていつつ兄を敬愛しているのは。あと道に迷っている人間と見たらなにかしようとぜすにはいられないし、言い換えればエンサイクロペディア曰くの自分の考えを人に話したい衝動が止まらないということでもある。
 サルアの口調は「九割九分チンピラだがたまーに柔らかい言い方がひょいと顔を出す」感じだよね、と暢気に構えてたら「アレ」ですよ「アレ」。

「俺は山ほど習った。」

 サルアの経歴はわたしの妄想によると「13歳ごろ、追放されたオレイルについていって彼に剣術を学び、数年後キムラックへ戻って教師校で説法の免許を取って正式に死の教師に加わった」というものなんですが、何冊分もの本というのは実家にある蔵書とかも読んでそうな気がする。

この陰気男

 前半の酒場のシーンではコルゴンは地の文で名前で書かれているのに対し、後半は単に「男」となっている。これもまた単なる表記揺れなのか、カメラが前半と後半で切り替わってサルアの内面に寄ったためなのか。

無敵の超人

 魔術士は武器も持たず、そよ風のように力ない声ひとつで恐ろしい現象を起こすことができる。剣は鞘に納めて壁に立てかけてあるだけでは(異質であっても)大型の刃物に過ぎないが、持ち歩いていればその人間は「暴力を振るう意思」を喧伝しているようなものだ。魔術士と敵対している人間は、その存在だけで暴力の予感を覚え、魔術士の本質を「危険」「世界を侵す罪」だと認識する。
 他方、まともな信仰心のある、神が応えてくれると信じることのできる教師は無欠の存在であり、どんな困難にも立ち向かえるという。
 そしてそれらを「偏見」とも言うこともできる。

なんでも収集せよと

 メッチェンがカミスンダ劇場調査の任に就いていたのも同じ理由と思われる。
 クオの目的は「女神を来臨させ、すべてを滅亡させる」なので、ここでサルアに出した指令をどう取ればいいのか。クオ自身いまだ迷っていたのかもしれない。

ぎりぎりの縁

 サルアという登場人物の造形をもっともよく表した単語であろう。彼はいつも、前に進むことも後ろに戻ることもできないところで踏みとどまっている。捨て鉢にならずに。いつの日か彼はついに自暴自棄になるかもしれない。それでもまだいまは違う。
 そしてたいがいの場合、「壊し屋」が現れて状況そのものを激変させていくのだが……。

視線の果てで

 カメラが内省から外へ、つまりコルゴンへ意識が向けられる。

「俺の主」

 コルゴンは領主の「頼みで動いている」のであって、仕えているというニュアンスはどうだろう、とも思う。ここは設定に対する正確さよりも意味の通りやすい台詞回しを優先したか。

咄嗟に思い浮かんだ顔は……

 ガラスの剣への態度と同様、反逆が露見すれば兄も死ぬと考えているあたり、描写は「終端」でのサルアだ(「背約者」でサルアは兄にはおいそれと手出しできないので実家に逃げこもうと提案している)。

「部外者の手を借りるってのはいい手かもな」

 こうして「狼」で遭遇したオーフェン、キリランシェロを「利用」することをサルアは思いつくのだろう……というふうに説明がつけられた。オーフェンがいずれキムラックを訪れると予感しているのは放棄されたのかもしれない。

肌に馴染むことに満足した。

 自分自身も望むはずの、という言葉はサルアの舌には馴染まなかった。教師という肩書、いわば精神的な衣服を彼はまとっており、それはサルアが思っていたよりも彼の肌に馴染んでいた。いつも正しくはあっても役に立たない(=無能力者)とばかり思っていた標語は、人に聞かせるためにあるとわかったから。
 疑う者は賢い。信じる者は愚か。神に疑念を抱かない教師は無欠である。まともな信仰心のない教師は奇跡を起こせず、困難に負ける。神は人間に応えない。だが人間は人間に応えることができる。だれかに聞かせるための言葉を口にし、だれかの言葉に耳を傾けるのだ。
 ところで「終端」では身にまとったスーツを柄でもないとぼやいていたのに「鋏の託宣」では休憩中でもネクタイをゆるめぬほど馴染んでおられたようで……。

 ……で、「なの」って何????? いや、何???????
 「なの」ってしゃべるの?????????
 普段であれば「――なんだよ」「――なんでね」といいそうなところを、「なの」。たとえばこれが主人公であれば「――なのさ」、マジクなら「――だからね」あたりか。
 予測を外した返答でコルゴンの虚を突き、煙に巻こうといつもよりもさらに軽い言いぶりになったのだろう。だから「なの」という語尾になるのは当然だ。筋が通っている。わかる。わかる? わかるか? 本当に? なにがわかったんだ? こうして頭の周りを大量発生したクエスチョンマークが高速大回転。「わかった? わからない」と自問自答音頭を踊りつづけるオタクがめでたく一体発生するのであった。

 それにしてもコルゴンの交渉下手、扇動下手が光る(秋田バースにおいて、ひょっとしたらそれは幸運でさえあるかもしれないのだが)。そこへいくとわれらが主人公オーフェンは退路が経たれたところにたまたまではあっても現れて餌を撒くので聞く者は乗らずにはおれない。さすが主人公。

 2期キムラック編放映に合わせての刊行だし、サルア主役はないにしてもなにかしら言及はあるのでは、と願望を持っていたらまさかこんなことになるとは……。
 特典の困るところって「あとがきがない」ってことなんですよどういうあれがなにでこういう話が生まれたんですか謎は深まるばかりですよ。でもこれで隙間編のメインになることはないと確定したわけで。いやあ、どうも贅沢を覚えていかんことだ。隙間を埋めたいという恐怖からの願望が世界崩壊のトリガーであったことを思うと、読者のリビドーはなにをもたらすんでしょうね。
 ところで「うらのゆめ」はマンガになったわけですが今回のはどうですかね、いかがですかね、ぜひにですね、ええ。
 読んでいる途中であかぎれが裂けた。というわけでわたしの所持するペーパーにはうっすら血がついています。コワイ!

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 アニメ放映に合わせて3冊刊行される予定のシリーズを、われらが秋田は本編のミッシング・リンクを埋めるという意味で「隙間編」とするのはどうかと提案したという。ボツになってしまったこの名称は、特典掌編「いつぞ、死の教師は」にこそふさわしいと思われる。

 この話にわたしは寂しさを覚える。ガラスの剣、出口のない閉塞感、兄の死という願望、説教、愚かさと賢さ。文中に散りばめられたモチーフの数々は、ボリュームに比して多すぎるかもしれない。これらはサルアというキャラクターをいろどるものとして、また彼を物語に接続するものとして、これまでのシリーズ中で登場してきた。言い換えれば、サルアの内面をさらに掘り下げるものとはいいがたい。
 ひとりの登場人物を深めるには、紙一枚という制限がひっかかったというのもあるだろう。しかし第四部での短編それぞれにおいて、オーフェン、マジク、コルゴンたちの新たな一面や変化が豊かに描かれていたことを思うと、やはりサルアは登場人物としてはすでに完結したのだと感傷がよぎる。
 「キエサルヒマの終端」こと「あいつがそいつでこいつがそれで」の連載が始まったとき、予想外だったサルアの再登場はもちろん喜ばしかったが、なにより嬉しかったのは彼の新たな一面がそこに描かれていたからだ。
 「我が神に弓ひけ背約者」エピローグでのサルアは、ずいぶんさばけた様子だ。ラポワントが死に、もくろんでいた変革も失敗したことをあまり気にしていないように見える。実は自分をかばって兄が命を落としたことを背負っていたと、「終端」ではじめて明かされた。
 クオこそ排除したものの、サルアらの逃亡後に外輪街で起こった暴動は貴族連盟の介入を招き、結局キムラックは崩壊した。クオやラポワントが生きていれば、つまりサルアが反逆を起こさなければ事態は変わっていただろうか。暴動とそれにともなうカーロッタと教主の逃亡は避けられないにしても、クオやラポワントならば騎士軍の派遣を要請しなかったかもしれない。教師たちの処刑や住民の虐殺と難民化は起きなかったかもしれない。仮に騎士軍が来なくても、貴族連盟は三竦みを打破すべく情勢を窺い、クオは女神の来臨を期し、キムラックはありかたそのものが限界を迎えていた。かたちが異なるだけで、悲惨な状況に陥っていたのは変わらなかっただろう。
 「我が夢に沈め楽園」でオーフェンが語ったように、投げたボールがいつ的に当たるのかは偶然ではあっても、「当てる」意思がある限り、「当たる」とは必然の結果なのだ。
 サルアは元教師として、キムラック人として故郷に戻った。やりたいことをやる、と兄に反駁していたときとは異なり、やらなければならないことをやるために。兄の死や変革の失敗、救いたかったが救えなかった結果を受け止めて立ち向かおうとする、新しい姿がそこにはあった。
 物語におけるサルアの役割は、教会内部の人間が主人公側について舞台であるキムラックの案内をすることだとわたしは認識していた。説教は、ストーリーの進行よりもサルアのキャラクター性に比重が置かれているように感じられる。
 よってサルアの語る言葉が筋書きよりも作品のテーマ性に直結していた「鋏の託宣」はなおのこと感動した。テーマの体現者たる主人公の問いかけ(しかも本人自身がわかりすぎている答えだ)に「終端」で答え、しかし「鋏」においてサルアは自らの手で覆すに至る。それがゆえに、オーフェンの進む道はさらに補強される。脇役を贔屓にしていてこれほどの感動を味わえることはなかなかない。ファン冥利に尽きる。
 であればこそ今回の掌編は、「開く」よりも隙間を埋めて補うものだったという印象が強まる。

 ときに、サルアとラポワントの間柄は、アザリーとチャイルドマンになぞらえることができると思う。「自分のことをどうにかして認めさせたかった相手を死に至らしめてしまう。しかも、その死因はばかなことをしでかした自分を助けようとしたのがあだとなってのもの」という点だ。そこへ今回、「自分自身が助かるために、積極的に相手の死を望む」要素まで追加された。(余談だが、アザリーもサルアもキリランシェロ/オーフェンに年長者ぶってちょっかいをかける言動を取るのも似ている。まあわれらが主人公氏はしょっちゅうだれかにちょっかいをかけられているのではあるが。)
 「背約者」エピローグで、サルアに気に病んだ様子が一切見られないのは、ひとつには第一部クライマックスのエピソードであるために湿っぽい描写が避けられたからだろう。また、サルアは「自分自身についてしゃべりたくないが、わかってはもらいたい」人物だと読めるところがあり、これもそうした態度の一環だとも取れる。そうすると、メッチェンに兄の死にまつわる悔恨を自ら語ったことにも異なるニュアンスが生じてくるだろう。
 だがもし、さばけた様子が「始末したい相手を始末できたから」だとしたらどうか。達成感、あるいは解放感を、それが心情すべてではないにせよ覚えていたとも想像できてしまうのだ。
 「終端」以降のサルアはアザリー言うところの「卑しさ」から読み解けるかもしれない。

 寂しい、と感じた点はもうひとつ。本エピソードは本編よりも一年ほど前の時点だと考えられる。《偉大なる心臓》村にすくなくとも半年以上滞在していることと、キムラックとの移動時間を勘定に入れると、それくらいにはなるだろう。しかし人物像は「終端」や第四部でのものに近い。
 第一部当時の、世慣れたふうでありながらその言動の中に「ぶっている」稚気が滲んでいたサルアは、それこそ過ぎ去ったのだと感じる読書体験だった。これは作家が変化し、それにともなって書きぶりも変わったということなので、「寂しい」と表現したもののネガティブには捉えていない。あくまで、わたしがサルアを凝視していて起こった感情の動きである。

 人物描写が「終端」でのサルアに近いと言ったが、本エピソードも「終端」第一章冒頭を想起させる構造だ。キムラックを「取り戻す/救う」という願いはあるものの、実現させるに能率的な手段を持てないでいるサルアが、魔術士の来訪を受ける。
 サルアにまつわるモチーフが過剰なほど登場する中で、ガラスの剣と兄への視線に目が止まる。第一部でのサルアは、ガラスの剣に「こいつがあれば、(クオに)負けはしない」と語るほど自負を持っている。ラポワントに対しても、「対等な立場だと認めてほしい」という態度だ。だがここではガラスの剣は切れないもの、無力なものと扱われ(他方、武器という本来の役割以外で行きずりの子供の助けとなる)、兄はその死を望まれる。
 そして「いつぞ、死の教師は」というタイトルは、「若き死の教師は」という「終端」での語り出しに対応しているように感じられる。
 だが「終端」と本エピソードは同じ話とはいえない。村の子供(自身が生きのびるために兄の死を望む)とコルゴン(組織に属するエージェント)はサルア自身の写し鏡であり、オーフェンのように彼の何事かを決定的に変えてしまう存在ではないという違いがある。
 だからだろうか。「終端」においては失われたもの、取り戻そうとしても取り戻せないものとしてラポワントと重ねられていたキムラックは、ここでは救いたい存在、死に瀕しているものと語られ、死を前にして兄という犠牲を払っても生き延びたいと望む子供に重ね合わされる。つまりここでのキムラックはサルア自身だ。

 シリーズを通じて、サルアの登場シーンは同じ構図が対称性をもって繰り返されている。
 「我が森に集え狼」では、地下牢にとらわれたオーフェンをサルアが訪れ(必然)、「背約者」では逆に地下牢にいるサルアのもとをオーフェンが偶然にたどりつく。
 「終端」でもこれは繰り返され、第1章と第3章でオーフェンとサルアが互いに相手のもとを必然に/偶然に訪れる場面として描かれる。オーフェンの言葉が「手札」や「ボール」など対照的な形状の物として表わされてもいる。
 「鋏」は「終端」第3章の繰り返しであり、「部屋を訪れるのは誰か」「ノックの音にどう応えるか」「ネクタイを緩める/緩めない」、そして「手にしてしまった力を振るうのか、振るわないのか」とテーマに関わる会話がなされる。
 この構図は、「出口のない場所、状況にいる相手をサルアが/オーフェンが訪れる」というものだ。「遺されたもの」でも地位から逃げられなくなったサルアをマジクが、そして本エピソードではコルゴンが、と「魔術士」が来訪すると読むのはこじつけになってしまうだろうか。「終端」における死角から近づいてきたサルアに気づいていたオーフェンと、本エピソードにおけるサルアを死角から一晩中気づかれずに観察していたコルゴン、と対照性を見出すこともできなくはない。
 つけくわえると、「終端」第1章はラモニロックの回想シーンとも共通点がある。つまり、眠れない男が、かつては(そしてのちには)ゲイト・ロックと呼ばれることになる荒野で、すべてを変えてしまう他者と遭遇するのだ。

 そもそも秋田禎信はフレーズであれ台詞であれ、文章の繰り返しを多用してきた作家だ。サルアが作中において繰り返される構図の中に身を置くことにあえて意味を見出してしまうと、彼が「進めもしない、戻れもしない」、堂々巡りの中にいるからではと、わたしにはそう思える。

 

(初出・2021年1月24日、2月3日。加筆修正のうえ投稿)