サルア君、アニメに出る(魔王、血涙、その他諸々)

 お兄ちゃんも出る。

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TVアニメ『魔術士オーフェンはぐれ旅 アーバンラマ編』2023年1月放送決定! on Twitter: "【サルア役 #下妻由幸】 サルアという多面体をどう演じたらいいかかなり悩みましたが、森久保さんをはじめ皆さんに助けていただきながら収録させていただきました。 キムラック編、ハードな展開で個人的に大好物です! ぜひご覧くださいませ! 👉https://t.co/QC6WWONxIi #オーフェン https://t.co/dUZWl9Iul1" / Twitter

 キャストコメントを見たぼく「勝ったッ! 第1部完!」

 

 スタジオディーン版を好意的に評価してみると、「1998年、1999年に放映されていたのがこれだったら、楽しんでいたかもしれない」となる。出来がよろしくないのだ。
 わたし個人の感覚においては、怒っているのとも嫌っているのとも違う。それでも出来栄えはいかんともしがたく、視聴のたびにくさくさした感情を覚えるのが正直なところだ。出来がまずかろうと、本作独自の魅力を構築できていたらまだしも、それもあるとは言い難い。

 

 作品そのものへの感想とは別に、特定の登場人物に行き過ぎた思い入れを抱いている身としては、上記のキャストコメントでめちゃくちゃテンションが上がった。
 多面体、すなわちさまざまな表情を持ち、奥行きある造形をしていて、視点を変えればその形が違って見えてくる。贔屓にしているキャラクターがそのように演じられているのを知れて、ことのほか嬉しい。1期6話はサルアの声音ににじみでるニュアンスの違いに、聞き入りながら非常に感じ入ったが、2期もその点では楽しめそうだと思った。
 ある意味、わたしにとって本作はここで感動のフィナーレを迎えたといってもいい。この感情は、読者であるわたしのサルアに対する認識が、役者さんと「似た点がある/ない」とは無関係に発生するものだ。好きなキャラクターについて役者さんの演技解釈を楽しむ、少なくともそれをする余地が本作にはある。

 また、監督はGIGAZINEのインタビュー(

https://gigazine.net/news/20201202-orphen-kimluck-takayuki-hamana-interview/

)で、「サルアはキャラクターがすごく立っていて、ベテランの下妻由幸さんが演じているので、セリフは少なくても存在感があるというシーンが多く出てくると思います。」と語っている。
 お世辞にも、原作の魅力をよく映像化しているとは言えぬ本作だし、「好きなキャラが出ているから」という一点をもって「いや、わたしにとって必要な作品なのだ」と主張するのさえあまりに強引だ。しかし、アニメ独自の、ここにしかいないサルアが存在する、そのことは心から喜ばしいと思っている。

 

 放映前の盛り上げ企画の一環として、リレーインタビューが催された。当初そう気を惹かれなかったが、12月8日更新分で話は変わってくる。「次回のインタビューはクオ役の杉田智和さんから、サルア役の下妻由幸さんです。」
 クオからサルアへのインタビュー? 凄惨な事態の隠語かなにか? ほら、たとえば二日間にわたって本格的に問い詰められるとか……。

 さらに続いて、下妻さんからクリーオウ役の大久保さんへとバトンが渡され「大久保さん! 性癖に刺さるキャラ(を演じる役者さん)からバトンが来てどうなんですか大久保さん!」とオタクの心は千々に乱れた。(参照:

https://natalie.mu/comic/pp/ssorphen01/page/2

 たまたま好きなキャラが一緒だったからといって役者さんに自分自身の思いの丈を託すのはやめろ。

 そうこうしている間に年が明け、放映が始まった。

 

・オープニング
 キムラック組がずらり並ぶカットが二つあるのに、サルアが片方にしかいないのはさすがに「アレッ」ってなった。ラポワントはどっちにもいるのに!
 キービジュアルには「ふーん」と思った一方、オープニング映像にはこう感じたということはわたしの中でこちらのほうが比重は高いということか。

 

・「我が意思を伝えよ魔王」

 メッチェンは原作で「めんどくさそうな目つき」「めんどくさそうに問いかける」と描写されているが、アニメでは盗賊団にかける号令はじめ、言葉づかいも表情も常にきりっとしている。自分自身のことを「様」を付けて見得を切ったり、いわば「キャラがぶれている」のを統一するのと、チャイルドマン関連で緊張感のある人物像として描く意図か。そこへ、目をつぶってオーフェンにしがみついている様子が入り、アクセントになっている。にしても、人間ひとりおぶってロープを降りられるオーフェン、腕力すごいよな。

 

 キービジュアル第一弾で、メッチェンがオーフェンと共に中心に据えられていたり、演じる鬼頭明里さんの単独インタビューが出たりと、「もしや制作側はメッチェンを押し出そうとしているのか?」という意見がネットで散見された。キャラクターとしての「格」はそこに不足しているのでは……というニュアンスである。

 また、メッチェンが「若い女性のキャラクター」だから安易にアイキャッチに用いようとしている、とみなすこともできる。

 そうした意見が出るのは理解できるが、2期導入部「魔王」のメインゲストであり、その後も「血涙」「背約者」と出番は続くのだから、放映開始にあたっての「フック」とするのは、そこまで不自然でもないと思われる。キャスティングがいつごろだったのかは不明だが、ちょうどアニメファン以外にも鬼頭さんの名が知れ渡ったタイミングでもあったわけだし。

 フックに起用するなら、いっそメッチェンのドラマを原作よりももう一段深めてもいいのではないか。なにも大きく尺を割かずとも、ちょっとした描写で彼女の人物像を印象的にすることはできる。

 たとえば、亡父に屈託を抱いているメッチェンが、チャイルドマンおよびその生徒キリランシェロにどのような感情を持っていたかは原作に述べられていない。活かすとしたらここだろう。

 ただなにぶん本作であるからして、そうした試みを仮に行ったとしても、どう描くんだろうという興味よりも、ちゃんとまとめられるのかという心配を引き起こすほうが大きそうではある。

 

 エピローグのオーフェンとメッチェンの会話は細かいところがかなり変更されている。
 まず盗賊団がカミスンダ劇場探索のために雇ったのを、「もっと前からのつきあい」とし、劇場を調査する命令もメッチェンが自分から申し出てのものとなった。いまのところ、変更の意図がよくわからない。
 死の教師の任に就いているのは、「キムラックにいるため」そして「最終拝謁を受けるため」だが、アニメでは後者が省かれた。この台詞はオーフェンから顔を反らし、目を伏せて語られるため、メッチェンの境遇を考えればキムラックの最悪度合いがより高まる(子供の産めない女性は追い出されるのか?)。

 墓に手を合わせるメッチェンの姿は、1期で描かれた「遺影を持った人が先頭に立つ葬列」という妙に日本的な塔の葬式を思い出させる。
 サルアの回想のカットがあのキメキメ顔なのは「わかってるじゃん」って思った。回想は一番いい顔でやってほしい。

 

 人形たちは魔術士(半天人)に戯曲『魔王』を見せることを役割としており、マジクにも見せようとしていた。これを、アニメでは未熟な者には見せられないとし、オーフェンが人形たちを攻撃する動機付けを強化している。原作にも「知識を受けるのに相応しくないものは排除する」とあるのでのちの展開を含めてそちらでまとめたか。
 アニメの「魔王」編は2話構成だったため、本作の欠点がよく表れたものになった。3話構成だと原作に書いてあることを(おおよそは)そのまま起こしているので目立たないが、2話分にまとめようとした結果、原作の要点を取りこぼした設計思想が露呈している。

 

・「我が聖都を濡らせ血涙」

 「魔王」を見終わったぼく「背約者に入ったら本気出す」

 ぼく「ちょっと待ってくださいよ」

 

 あらすじが公開されたときは完全に頭が混乱をきたした。なぜ? なぜここに原作にない場面が? このカットいる? 必要か? 必要なのかこれ???
 「そうか、『メッチェンは市内のサルアと合流するつもりだったが、当のサルアは取っ捕まってすでに洗いざらい吐かされていた。危うし、主人公!』という場面だな!」と当たり前の推論を思いつくまでに一晩を要した。
 3話告知ツイートのうち、引用したのがやたらRTおよびLikeが多いのには半ば笑い、半ば「ワカル……」となってしまった。

 

 クオがチャイルドマンの死をラモニロックに報告し、殲滅を進言するがラモニロックは放っておいてもいずれ魔術士は滅びると返す。この変更はあまり活かされなさそうな気はするが、さて。
 転がされたマジクのうめき声がまじで痛そう。アニメでは授業風景がまったく描かれなかったところで、初めて視聴者の前に出てきたのがこれなので、期せずしてオーフェンの教え下手が強調されることに。

 

 オレイル「まずつし」
 メッチェンらの目的は「オーフェンを利用してクオを排除し、教主に神殿街と外輪街の格差を直訴する」ことだと視聴者に提示。メッチェンの言いようだと、外輪街から寄進という形で収奪し、しかも還元はしないということか。
 オーフェンのノックに「鍵はかかっておらんよ/鍵は開いてるよ」と応答するオレイルは、ひょっとしてラポワントのノックに「ドアが開かない」と返答するクリーオウと対照になっているのだろうか。
 変革を目論むのがサルアとメッチェンだけというのは無理があるからか、市外に協力者がいる形に(盗賊団は事あらば共に攻めこむための戦力だったのかもしれない)。同時に、サルアと連絡が取れず計画に暗雲が漂い始めていることをも示す。ノックの音に剣を構えるメッチェンの姿は、彼女がこの事態にかなり神経質になっているという示唆だろうか。
 そしてこんなところでも唐突にサルアの新規カットがインサートされ、また「エエ~~~ッ!?」と動揺してしまった。オタクの神経はボロボロ。

 

「過去と現在は、やがて滅びに至る道程であり、それが三女神の約束なのである。万物はその流れに逆らえず、また逆らってはならない。滅びを受け容れ続けている限り、未来はどこまでも続くのである。祈りましょう。聖なるかな。生誕の美しきかな。運命の正しきかな。死の聖なるかな

  まさかお兄ちゃんまで出てくるとは……。初見時、あまりに動転してこのシーンは一時停止を連打しなければならなかった。「ハーティアズ・チョイス」特典を読んでいたために衝撃が2倍!
 ラポワントの登場(1HIT!)、物柔らかな声音と端正なたたずまいでありがたい神の教えを説く教師長(2HIT!)、「弟君」(3HIT!)、牢屋に落っこちてた死体!(Perfect!)とみごとなコンボを決められ、わたしは白いマットに沈んだのであった。
 このところ会っていない、とやや沈んだ表情で言っているので、ラポワントはサルアが造反が露見したために捕縛されたと察しているのだろう。
 サルアは家に疎外感こそ感じているものの、むしろ家族からの愛情は受けて育ったような様子があり、故郷に対する愛着も有していた。傍から見れば、本作のように名家の出として兄弟そろって教会のために働き、また「剣もたいへんお得意」だと思われてたかもしれないと示され、それでも内心はああだったわけで、あの、その、なんだこのいわく言い難い気持ちは……。

 

 鎖! 手枷! やつれきって気を失った横顔!

 だからなんでそんなもんがお出しされる!?
 予告カットのおかげで耐衝撃態勢が取れた。そうでなければ危ないところだった。
 「オーフェン」で鎖っていったら上半身裸で翼が生えて悩まし気な表情しなければならないのでは。これは許しがたき誤謬(※知らない方へ。むかし、アニメージュでそんなふろくがあったのです)。

 

 キムラックは偶像崇拝を禁じているのだが、女神像が鎮座ましましているのはまあしかたないか。
 オレイルがメッチェン父を「アミック」と呼んだり、ラポワントがソリュード教師長と呼びかけられたりするのも、視聴者に人物関係を把握させるほうを優先しなければならないし、しかたなかろ(「設定に忠実な描写」はときに邪魔になることもあると思う)。
 サルアの爪が健在なのはしかたなくないと思う。それともこれから剥がされるのかな……。

 

「クリーオウが見たら爆笑だろうな」

 クリーオウとマジクふたりに黙って、こっそり出発したニュアンスになっている。
 白い服のオーフェンは見慣れていないから変な風に見えるだけで、似合っていないわけではないような気がする、のは昔からの感想。

 「宿にはオレイルがいる」ということは、追放されたオレイルはあそこで宿屋を営んでいたのだろうか。だったらあの家屋が馬鹿でかいのもしかたないのかもしれない。外輪街の住民の中には「そのためにここまで来たんだ」と口にしている者がおり、キムラック市を目指す旅人を客として生計を立てていたと思われる。追放後、オレイルはどうやって生活していたのかという疑問に妙に現実的な形で回答が示された。

「わたしの師」

 オレイルがなにか言いたそうにこちらを見ている。

 

(初出:2021年2月10日。加筆修正のうえ投稿)