サルア君、アニメに出る(1期7話)

第7話「我が森に集え狼」
 ……集ってないな!?

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「ようやくお目覚めか」

 昏倒していたサルアが気づくまで待っていたオーフェンさん、朝まですやすやしていたらどうするつもりだったんだろう。頭を殴られたからそっとしておいてくれたのか。

「確か後ろから何かが」

「それについては深く考えるな」

「ええ……?」

 いずれやるだろう2期、「背約者」地下牢でのやりとりをここをふまえたものにしてくれると嬉しい。
 ところで目が覚めたらキリランシェロがガラスの剣を担いでいる光景を目撃する羽目になったサルア・ソリュードさん、現在の心境は?

 

 フィエナはオーフェンに掴まれた手首をじっと見ている。他人に掴まれた手を自力でほどけない(ドラゴンやマクドガルに唯々諾々と従っている)彼女は、自身の意思を通すなどできないと思っている。
 マジクとフィエナが待機する場所を、たとえば森の中にするなどしておけば、あとの「アスラリエルの間に割って入るまでなにをしていた?」感が薄れたと思う。

 

 マクドガルのところに案内しろと言われて素直に連れていくサルア君、なぜ……?(原作でもそうだったから)(原作でも謎だよ)(憧れのキリランシェロから頼まれたら断れないのでは?)

 オーフェンマクドガルが話しているときにわざわざ顔を見せるサルア君、なぜ……?(原作でも以下同文)
 ここでのサルア、もう剣がマントに隠れてないんだよな。
 原作のマクドガルはサルアの正体に薄々勘づいていたのではとも思える。教会、あとひょっとしたら拳銃を奪ったかどで派遣警察から追われているマクドガルからすれば、怪しくても有用な人間は雇わざるを得なかったのではないか。村内で暗殺には出るまいと踏んでいただろうし。本作ではサルアの姿を目にし訝しむことで、気づいていないことを明確に描写。

「これは取引だ。〇〇だが、あんたの命を狙ってるやつを教えてやる」

 なんていってるのか聞き取れなかった。

「裏切ったな!?」

 裏切るもなにも。そもそも、どういうつもりで引き合わせたのかねチミィ(原作以下同文)。
 ときに、オーフェンのことを他人事みたいな口調で話すサルアが見たいという願望を持っていたので「魔術士!」と呼ぶ台詞を聞けてよかった(なぜそんな願望を……!?)。

 マクドガルの死因を、自殺から「オーフェンを撃とうとして暴発」に変更。死に顔がよいものだった。自殺のほうが追い詰められた末の行動としては自然だが、暴発による死も秋田作品らしさがあり、高ポイントではある。また最終拝謁のくだりを末期の言葉にした影響もあろう。
 でもこれで、サルアがこめかみを撃ち抜くジェスチャーするところが見られなくなってしまったということになるな。
 マクドガルの暴走をみると、教会が最終拝謁を限られた人間にのみ許しているのはさもありなん。

「俺、裏切り者ってのは結構好きなんだ」

 さきほど激昂して斬りかかってきた人間とは思えぬおっしゃりよう。とまれ、この時点でサルアは組織にも、教義にも背約しているわけだが。
 かなりわざとらしい言いかたでキリランシェロと呼びかけたのには、「必ず来るはずだ」のニュアンスを感じ取ることができる。ないものを勝手に感じ取るのをやめろ。

 

 6話では3人だったレンジャー、なぜか4人に。クリーオウを待っている間に殴り合って増えたのだろうか。

 アスラリエルなのに佐々木望なのか? という声が散見されたが、そもそも相手はディープ・ドラゴン、非人間なのであるし。それに声が佐々木望のお母さんになんらの問題があろうはずもない。
 まじめな話、男性にせよ女性にせよ、役者が声色を変えずに異性の役を演じるということがあってもいいのでは。もっとも、本作はそこまでの意図は持っていなかろう。

 

 自分の頭で考えろ、とどこぞの説教大好きお兄さんのようなことを村人に向かって言う主人公。これを聞いてフィエナは自分の人生を決めるわけで。

 普通の人間相手に魔術は使えないという台詞は意図が不明瞭。直後に地人兄弟ぶっ飛ばしたりすれば、くすぐりにはなるけれども。

 師の役に立ちたい、という健気な弟子を「立つわけねぇだろ!」と一刀両断。これはのちの展開を思うと、うまい変更だと思う。マジクは当初こそおっとりした気性の少年だが、常日頃からオーフェンとクリーオウに首根っこを押さえつけられているところに、数々の局面で自分は役に立っていないと思わされ続け(実際はそうでもないのだが)、鬱屈を募らせていくことになる。

 疑似空間転移が失敗したらめちゃめちゃヤバいと知りつつ、師から伸ばされた手をしっかりと握る、なんと美しい師弟愛でありましょうか。

 

 マクドガルに会わせてやる、正体をばらされたうえに粛清対象を逃がされそうになる、魔術で吹っ飛ばされる、さらにはフィエナのみならずマジクのことまで頼まれてやるサルア君、もしやただのいい人か? でも主人公が黙ってじっと見つめてきたらサルア君折れるでしょ。主人公、ティッシで味をしめて面倒な頼みごとをするときは相手をじっと見つめてそうという偏見がある。
 原作でも似たような流れではある。ただ、もともとサルアはフィエナを助けるつもりだった。自分がマクドガルの死の犯人にされることはないから、という台詞で漁夫の利を得た感じもある。
 フィエナが泣いていた理由、怖いからではなく「このままここに一人でいたくない」だそうで、つまりあの結末で彼女は孤独ではなくなったとでも?

 

 黒い服を着用、しかも本作では師からわざわざ譲ってもらうなど形から入るマジクが、かっこいいポーズを取るのはなるほど筋が通っている。
 マジクに光を屈折させる魔術を使わせるところ、原作によれば「最も成功率の高い魔術――つまるところは使用頻度が高い」とあって、あらためて「ウワッ、暴力!」ってなった。当アカウントは秋田の暴力性を応援していまぁす!

「これがわたしのやるべきことだから」

 「やらねばならないのだから仕方ない。やるだけだ。」が過ぎってグワーーーッ!!ってなった。一事が万事サルアに結びつけるのをやめろ。

「けど、たとえお飾りの巫女だとしても、この村の人たちを見殺しにはできません!この身が滅びても守ります!」

「行きましょう、わたしたちの新天地へ」

……これらの台詞からして、本作はフィエナが「自分の頭で自分の人生を考えて」、村の新たな指導者に就いたとみて間違いないようだ。迷いこんでくる前の服が描かれなかったのも道理だといえよう。彼女がそれを着る必要はないのだから。

 遠くからフィエナの様子を見守るサルアのカットを入れるのは最低限の描写でフォローを行っており、描写としてはよし。

 

 原作でアスラリエルがフィエナを使い魔としたことを「間違いだった」と言ったのは、フィエナが逆らうからでも、彼女が言ったように強さを持たなかったからとも違う。おそらくフィエナに「意志(やりたいと望むこと)」が生じたからだ。

 ボルカン、いちいち可愛いな。マスコットとしての役割を果たしている。

 マジクとフィエナの別れの様子、1998年版と似ているような気がする(記憶調べ)。
 話の筋という面では比較的破綻の少なかった「狼」編。その中で、オーフェンを指して「お師様」と呼ぶフィエナの台詞はかなり変だ。でもいろんなことに比べたら小さい小さい。

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・よくなかった点

 全14話の折り返し地点に来て、わたしにとって一番「これはあかんやつ」と感じたのがこの7話だった。
 本作の欠点は多数の観点からさまざまに挙げられる。まず映像表現の貧困さは致命的だ。20年前に放映されていても通用するような雰囲気であるうえに、かつて原作を読んでいて感じた「かっこよさ」は表現されていない。「かっこいい文章」と「かっこいい映像」はまるで異なるものだし、単純に再現しようと思ってできるものではないだろう。それでも本作を「かっこいい映像」とは残念ながら思えない。わたしは「作画崩壊」という物言いは好まないが、アニメはまず映像芸術だ。
 登場人物の行動の処理が凡庸だとか、省略が稚拙で前後のつながりがおかしいとか、芯と呼べるものがないとか、言おうと思えばいくらでも言える。が、ひとまずわたしにとってはネガティブな感情を抱くものではない。美点をつらねることと、欠点を指摘していくことにさほどの違いがあるのか、最近疑問に感じているということもある。ぜんたい、「出来が悪くてつまらない」ことはそんなに悪く、「出来が良くて面白い」ことは喜ばしいことなのだろうか。
 ただ、フィエナの描きかたについては、まず現代に発表される作品としてだめだと判断した。仮に映像や脚本が素晴らしいものであったとしても、この点においてわたしの評価は変わらない。

 

 原作の初期は、映画「男はつらいよ」がコンセプトだったという証言がある。主人公が「なんでまた、いつもいつも、俺をめんどうに巻き込むのは女なんだよ!」とひとりごちるそのまま、毎回のゲストヒロインの抱える「トラブル」が話を動かす軸になっている。
 フィエナの場合は、弱さゆえに他人の力――少年たちの暴力に始まり、アスラリエルの思惑、マクドガルの計画――に支配され怯えていた彼女が、泣くのを自分でやめて自分を支配する者に対峙するという筋書きだ。
 オーフェンはもともと目の前のトラブルを無視できない性根だが、「自分には誰もいない。だから友達だけでも助けたい」というフィエナの言葉にふと共感を寄せる。死に怯えていた彼女をマクドガルから解放してやろうと試み、しかしオーフェンの考えていたものとは違う形で達成される。
 打ち克つ、というのは秋田バースにおいて手放しに称賛されるものではない。また、ふりかかる困難すべてに独力で対処すべき「ではない」ともされる。
 マクドガルにはオーフェンが話をつけようとする一方、フィエナを支配するもう片方の存在、アスラリエルには彼女が自ら立ち向かう必要がある。逃げてもいいのか、と問うたフィエナに対し、サルアは「生き延びるのが最重要で、逃げずに打ち克ちたいなんて自己満足だ」と答えた。フィエナは、キムラックへ向かえば最終拝謁を探ろうとするアスラリエルの思惑に従い続けると気づき、逃げるのをやめる。むろん、フィエナひとりの力ではアスラリエルには打ち克てない。村の殲滅を「止める」のにとどまるのみだ。しかし達成そのものを危ぶむ秋田バースでは「止める」こと、そして「満足すること」が最適解として提示される。フィエナは絵に描いたような例だといえよう。彼女がアスラリエルの支配から脱すれば、友達を助けることに繋がる。フィエナはおそらくそのことに満足する。

 

 翻って、2020年に世に出されたこのアニメ版でフィエナは何を決意したか。
 フィエナは暗黒魔術を使える人間として、マクドガルに村を支配する道具として利用されてきた。オーフェンの言葉から他者に従わされる自らの弱さを突きつけられ、また自分の人生は他人に委ねず、自分で決めねばと決意するようになる。それが、道具でもお飾りでもない巫女として村を守る行動に出ることだった。フィエナはおそらく新たな指導者に就き、「わたしたちの新天地」という台詞からは彼女はもうひとりではないことがうかがえる。
 ちょうど、原作でサルア言うところの「マクドガルを失った村人により、今度こそ逃げる隙なく監禁される」道を自ら選び取った風だ。
 原作の変更よりも大きな問題点がここにある。本作でフィエナが示した意思とは、つまるところ彼女を支配し利用してきたシステムの中に入り直すというものだ。フィエナを解放し、自分の頭で考えろと主人公は村人たちを叱咤した。しかし本作が描いたのは、村人たちはなにも考えることのないまま、フィエナが自発的に指導者に収まる結末だった。
 暴力によって死んだ人間がその状態をアスラリエルに利用されて使い魔となり、使い魔として得た力を今度はマクドガルに、村人にと二重三重に利用される。果てはその利用の継続を望む集団へ今度は自発的に入り直し、閉じこめられる。自己犠牲の賛美でもしたいのか? (本作でフィエナの死因は語られていないが、明確に変更されていないので原作と同じとして解釈する。)
 「弱い人間は支配することを望み、弱い社会は支配されることを望む。」原作とはいえ四部の台詞だが、本作「狼」編におけるドラゴン信仰者にぴったりだ。村人たちは弱さゆえに都合よく委ねられる対象であるディープ・ドラゴン、ひいては教祖/巫女を望み、それを上に戴いて自分たちこそが支配されている側なのだと定義する。
 フィエナが自ら閉じこめられるのを選んだと描くことに何らかの意義を呈したいというのならまだいい。だが、絶対にそうではないだろう。集団に対する若い女性の自発的な献身を肯定的に描く、その手法を取る作品は世にあまたある。言い換えれば一般的で、つまり時代と社会に対して盲目的な態度だ。自発的な行動というフィクションがだれかにとって都合のいいものであるとき、そこには欺瞞がある。
 また、そうした結末はわたしが繰り延べてきたものとは異なる理路で、原作第二部(東部編)がすでに否定していることもつけ加えておく必要があるだろう。「超人は世界を救わない」のだ。

 「狼」編3エピソードの中にフィエナと村人の間に交流があると示していれば、彼女の決断にまつわる唐突さは軽減できたかもしれない。あるいは1998年版のようにフィエナがもともと村の巫女だったとしてもいい。そうすると、たとえば巫女として魔術士に偏見を持っていたのが、マジクとの出会いによりドラゴン信仰者と魔術士との間に融和を目指そうと考えるようになる、など他の筋も生まれえただろう。しかしこんな仮定は無意味な話で、結局はエピソードの大幅な再構成を迫られる。
 フィエナの意思を描くというなら、「逃げる選択肢を取らず、支配から脱しようとした」その一点をなぜ表現しなかった。

 

・その他
 サルアについての新鮮な言及に飢えて、普段は目に入れないようにしているニコニコ動画のコメントを見たらば、「悩める若者を見ると照れながら面倒を焼いてくれる」とあり、アウッアウッアウッとアシカのような鳴き声を上げるなどした。世話焼きというか、エンサイクロペディアいわくの「他人に自分の考えを話したくなる衝動がとまらない」という説教癖の気が。
 ところで新鮮な言及といえば大久保さんの「性癖に刺さる」とはいかなるものなのか詳らかに知りたいです!!
 さておき、追い詰められてるフィエナに親身になって接するのは本当なんだけど、(遊びとはいえ)つきあってる相手を混乱の中躊躇なく置き去りにできる人間でもある。あれはいくらなんでもひどくない? と思ってたけど、よく考えたらサルアはマクドガルの死による混乱はわかっていてもディープ・ドラゴンのほうは知らないのだった。
 人ひとり、それもたぶんパニックになってるだろう人間を連れてフィエナと落ち合うのは手に余る&隠れ里で生まれ育った人間だから連れ出さないほうが相手にとってもいい、という判断はいかにも合理的。でも、のちのちの描写はサルアを「近しい人間でも、利用できる機会には逃さず己の利益に供することができる」と仄めかしているように思えてならない。いわんや遊び相手をや。
 ラポワントは利益を取れない、見捨てることのできない人間だった。ために、弟をかばって命を落とした。やりたいと望むことがおそらく「兄にはできないようなこと」だったサルアは、実は「他人を見捨てる=他人の死を利用して生き延びる(兄含む)」行動を取れる人間ではなかったか。とすれば、なるほど政治家ができるわけだ。
 「自分の力が及ぶ範囲を正確に把握する」「独力で手に余るなら、他人と協力する(=他人を利用する)」。これらは秋田バースでは生き延びるために必要な能力であり、しかしながら……。
 サルアについて、遊び相手を置き去りにできるようなところを、「酷薄な面がある」と表現したことがある。でも、たとえばわれらが主人公の「目の前で人が殺されるとムカつく」という心情が、第二部では与り知らないところで起きた人死ににも忌避感を抱くようになっている様をみると、酷薄うんぬんの捉えかたは違ったなといまでは思う。
 オーフェンの「人が死ぬことへの忌避感」の出発点は、「周囲から期待されている、アザリーへの抑止力(スタッブ)という役割の否定」――と見せかけて、実は違う。「亡霊」で自分の意思で殺すのは「アリ」と表わされるなど、それはシリーズ初期から示唆されている。
 オーフェンが抱いている忌避感は、「殺すという一線さえ踏み越えなければ、『師の望んだアザリーを殺す者』にならずにいられる」「死とは単にそれで終わりで全て無意味だ。だから自分の死には(翻って他人のそれも)抗わなければならない」と二重に組み合わさっている。キムラック編で前者のいわばマインドセットからは解放される。後者がエピソードとして描かれているのが、「と、魔王は考える」であろう。
 登場人物たちの、人の生き死ににまつわる「決断(イスターシバいわくの)」については、情のあるなしといった表現を用いるべきではなかろ、というのがいまの考え。

 

 ときにサルア君や、なんでキリランシェロがいつか必ずキムラックに、「俺のところに(強調)」来るはずだと確信しているのかね、というのは初めて読んだときから長年の謎。でもそれをいまの秋田に訊いたら後づけでとんでもねえ理由こさえてくれそうで怖い。こわいこわい、まんじゅうこわい
 いやキムラック編の前振りとして書かれた一文だというのはさておき、キャラクターの心情としてはマジに謎。本当になぜ……?
 唯一ひねり出せたのが、オレイルに聞かされたチャイルドマンの話から、その後継者もまた最終拝謁を目的に現れると考えるようになったのでは説。チャイルドマンのキムラック侵入により街は大きな変化を迎え、変化を望むサルアはキリランシェロの到来を望むようになったのではなかろか。でもだからといって「俺のところに」は言い過ぎだと思う。
 あとこの線だとオレイルもまたチャイルドマンに巨大感情持ってそう。でもまあ戦士としての生命を奪われたのだしね。クオもラモニロックもチャイルドマンにこだわってるからね。
 とはいえ第四部で明らかになったじっくりコトコト煮込んだ執着を思えば、謎の思い入れも初夏の雲ひとつない青空のように爽やか。「鋏」の罵り合い、サルアからの「どうして俺を助けてくれなかった」に対するオーフェンの返答が「どうして俺の『理想の友人』でいてくれなかった」なのでマ~~~ジに噛み合わねえ~~~~~。
 主人公から「ぼくの『理想の友人』になってよ!」って言われて「無理です」って断れなかったのがサルア君の敗因。線引きができるのがきみの長所ではなかったのか。でもほかならぬ主人公からそのようなお願いをされてサルア君に断れるのか? 無理だ。無理だな(そもそも誰もそんなことは言っていない)。

 

 原作の冒頭でフィエナの外見、というか身体がいかなるものか描写をしたあとにこれを嫌うかどうかは見る者の趣味の問題だろう、という一文が入る。まさにいま、集団暴行目的に追われている場面だと思うとめちゃくちゃ露悪的。あと別のところでも言ったが、フィエナが少年たちの標的になったのは「あとから被害を言い立てるような親がいない」からだったのではと邪推を働かせるとグエ~~~ってなれます。なるな。

 

 サルアがフィエナを彼女の出身地であるソリチアンではなくキムラックに連れていくつもりだったということは、フィエナとしてはもうソリチアンにいづらかったのだろうか。半年前に少年3人と共に行方不明になってひとりで戻ってきたら、いろいろ言われそうではある。
 ソリチアンは、11歳で親を喪った子供がその後3年間健康に成長できる環境だから、共同で面倒を見るような仕組みがあるのかもしれない。
 「血涙」を読むとソリュード家で引き取るのは難しいようにも思えるが、「狼」のころはまだ閉鎖都市としては考えていなかったのだろうか。大陸各地の教会を統括するうんぬん、という文もあるし。のちの設定に合わせるならば、オレイルのところに頼むことになるだろうか。とはいえフィエナひとりくらいなら神殿街に入るのも難しくないかもな。

 そういえばフィエナは、サルアがつきあっていた相手の生死を確認できる、というかどうしてもわかってしまうよな……。対して、サルアはひょっとしたら村にディープ・ドラゴンが襲撃してきたことさえ知らないままという。

 眉についた土を払う仕草は、年端もいかぬ少女の淡い想いがにじみでる描写で好きなんだが、さすがにアニメにするには冗長。あそこは台詞と表情だけで十分だよな。
 「あなたのお兄さん、会いたいです」には、「逃がそうとしてくれてありがとう、でも、わたしにはやることがあるから残ります」という決意が表われてるよね。

 

・見終わって
 「サルアが動くということは歴史が動くということ」byフォロワーさん
 半分終えて、かなり「まとも」な出来の回だった6話に好きなキャラの見せ場があったこと、複雑な気分ですね……。
 「狼」編の放映されていた2月は、まず4話を次回予告目当てで待ちわびるところから始まってとにかくずっとテンションがめちゃめちゃ。わたしは配信待ちだったため、実際に見るまで1週間よけいに長引き、まるまる1か月アニメのことしか考えられない日々。嬉しいよりなにより、とにかく疲れもうした、というのが正直な気持ちであります。
 こんなことをされたらキムラック編のめちゃくちゃかっちょいいサルア君を見せてもらわねばこちらの気が済みません!

 

(初出・2020年3月22日。加筆修正のうえ投稿)