サルア君はマンガに出るのか?(魔女の救済編感想)

 タイトルを「サルア君は縦になるのか?」にするか、ちょっと迷った。

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 今回のコミカライズは、SNS上では「縦オーフェン」と呼ぶのが一般的らしい。
 わたしは、別称や略称には軽視を、悪くすると嘲笑を引き起こす効果があるように思われなるべく使わないようにしている。さておき、「縦オーフェン」にはなかなか可愛らしい響きがある。

 さて連載中や放映中、つまり「旬」の作品ならともかく完結して久しい場合は新規企画はどうしたって唐突に感じられよう。「オーフェン」もアニメが放映されていたとはいえ終了して一年近く。今回の連載は「え? 今? なんで?」と感じた。
 というかほかにも、「サブタイトルは『魔女の救済編』です」「はい」「さっそくですがもう20話まであります」「なんで?」「20話のサムネイルはラッツベイン(?)です」「なんで?」「連載開始から現在に至るまで、出版社も作品公式アカウントも原作者も一切告知してません」「なんで? いや告知はすべきじゃない?」等々、よくわからない点が多々見られた。なんで関係各所はどこも触れてないんだろうな……。
 発表と連載開始が4月1日、つまり各企業がジョーク企画を催すのが恒例になっている日だったことも、「なんで?」感漂うこの企画にさらなる「なんで?」をひとさじ加えたかもしれない。
 そもそも「あいつがそいつでこいつがそれで」以降、本シリーズの商品展開(あえてこう言う)は、長期的に計画された印象がない。各商品もいまひとつ魅力に欠けることが多く、うまく連動させたとか着実に積み重ねてきたとか、作る側が盛り上がりを醸成できてきたかといえば否だ。今回の「魔女の救済編」にまつわる「なんで?」もその一環ともいえようか。
 でも告知なり宣伝なりはやるべきだとまじで思う。


・「我が呼び声に応えよ獣」
 内容のほうはというと、「獣」にあたる第10話までは「のちの展開を見据えた形でストーリーを整理し、適宜アレンジを施した」という趣きで、そこは肯定的に見ていた。しかしながら、本作独自の魅力を見せてくれているかというとそこは少々物足りず、面白いともつまらないとも、この段階では言いきれなかった。あと読んでいて、もぞもぞする感触がどうしても。
 スタジオディーン版同様、人物と背景の縮尺がおかしいが、本作は「クソデカ背景」とはあまり言われていないように見受けられる。テレビアニメに比べたらタテヨミマンガの背景はあまり目立たないからか。もしくは、人物の頭身が縦に長いので縮尺の齟齬がスタジオディーン版に比して小さいのかもしれない。
「魔女の救済編」というサブタイトルを、はじめ「アザリーが救済される。またはアザリーが救済する?」と考えていた。「獣」が終わってもサブタイトルはそのままであるので、本作の中心部分はここにかかってくるのだろう。

・「我が命に従え機械」
「機械」からはダイナミックな構図や、縦スクロールを活かした視線誘導で戦闘シーンに迫力をつけるなど、マンガとしての読みごたえを感じられるようになってきた。ここでようやく義務感(読み続けないといざ話が「狼」に入ったとき困る)ではなく、本作そのものに対し、読みたいモチベーションが出てきた。
 本作の「機械」では、クリーオウとキリングドールのやり取りがうまい。まずキリングドールに固有の人格と意思があることを示しているが、ここだけでは秋田作品に頻出する「自己と他者」のモチーフを良く言えば今風に、悪く言えばわかりやすすぎる形で処理しているにとどまる。クリーオウがけしかける展開にすることで、「意思の確立」を再構築している。欲を言えばこの確立された意思に疑義を呈してほしいところだが、それは精神支配でやってくれるかな。
 また一連の場面は、クリーオウはレキにしろライアンにしろ、出会った他者にまず固有の人格を認める人物なのだと示しているとも読めよう。
 ところでJ.C.STAFF版由来の呪文が出てきたときは、当時の「お、音声魔術士が永続効果のある魔術を使うな~~~!」という感情がよみがえり、いわくいいがたい心境になった。バジリコックから名称をエルカレナに変更したのは、ちょっとしたお遊びなのだろうか。
 ステフが原作通りトランスジェンダーなのか、シスジェンダーに変更されたのかはどうとでも取れる。もし変更していたならウォッシングじゃないのかと思う一方、トランスジェンダーとして登場させていても本作が現代日本のマンガである以上、差別的な表現にとどまっていた可能性は高い。仮に作り手が表現に工夫を凝らしていたとしても、読む側が差別的な受容をしていたのでは、くらいのことは想像する。
 原作からしてステフの描写は「女性だと思ったら、男性だった」とアイデンティティを否定するタイプのもので、しかも読者に「意外性があって面白いもの」という形で提示している。なおかつ、「無謀編」でオーフェンが異性装や同性愛を目の当たりにするとパニックに陥る様を「笑いをもたらすもの」と提示するように派生する。
 当時はそれが当たり前だった、という言いかたは作品の中の差別に目をつむる思考停止の言い訳だ。描いても描かなくても、作り手も受け手も、差別から逃れることはできない。

・「我が胸で眠れ亡霊」
「ウソだろオイ!」には、「それはこっちの台詞だよ!」と思った。「サムネイルのこれはどうみてもラッツベインだよな……。いったいどうなるんだ」と思っていたのに、いざラッツベインが登場したときは驚いた。「我が遺志を伝えよ魔王」あとがきとパイルドライバーのおかげで「まあしかたないか」となってしまうのがあまりにも無法である。同年代の姿のマジクとラッツベインが並んでいると謎の「いいなあ」という感情が湧いて出た。
 翻案作品は、原作既読者に「原作通りだ」と安心させつつ「そう来たか」と意外性も感じさせることが求められると思う。驚かせるという点では大いに成功している。
 ときに、なぜラッツベインなのか。フォノゴロスのクリーチャー製造技術は第四部で登場しているわけで、第四部の事物がストーリーに組みこまれるのはわかる。本作ではマジクのヴァンパイアライズも取り上げるようだし。
 原作については、「なんでもかんでも設定で説明されると興が削がれる」と感じている。他方、翻案作品の場合は「原作の設定をいかして再構築しているな」と楽しみがまさる(ヒリエッタのボディスーツに鱗があるのは細かい)。できればラッツベインの登場には、お楽しみ要素や意外性以上のものを見せてほしいところ。


 本作を読むためにアプリをインストールしたところ、通信アプリのほうのLINEとタップひとつで連携が完了した。なるほど個人情報はこうして収集されるのかと実感できる出来事だった。


 原作本編「はぐれ旅」コミカライズといえば、沢田版と連版である。両者はいずれもサルアが登場しなかった。本作の報に触れたとき、「話は『狼』まで行くの? というかサルア君出るの? 再構成の結果省略されるとかだったりしない?」とは、むろん考えた。
 おまけにこの第四部の組みこみよう、登場した暁には第四部のあれこれが前提での造形となっているんじゃないかと勝手な想像まで始まり、気が気でなく、精神的に右往左往している。昨年の6月は「終端」がアニメ化されるのかどうか、されたとして出番があるのか否かで謎のプレッシャーを感じる日々を過ごしていた。まさか2年連続で好きなキャラクターの出番があるかどうかで気もそぞろということがあるだろうか。あるんだなあ、それが。