サルア君はマンガに出るのか?(魔女の救済編1-10話)

 あらためて「魔女の救済編」の感想を書きました。今回は1話から10話、原作「我が呼び声に応えよ獣」までになります。

 

 映像化、マンガ化、小説化、舞台化、ゲーム化。あるいはほかのもろもろ。古くは「メディアミックス」と呼ばれた種々の翻案に際し、元となった作品に「忠実に」、言い換えればトレースするやりかたは、あくまで翻案のやりかたのひとつであって、唯一の正解ではないと思う。
 「間違った愛情や、オリジナリティという言葉で糊塗した製作者側の我欲のままに変更するくらいなら、思考停止してトレースしたほうがマシ」というような物言いも、二元論に陥っていて翻案という作業を単純化していると感じられる。

 唐突にLINEマンガで開始した「魔女の救済編」は、オーフェンの服装など登場人物の外見に始まり、婚約者になったクリーオウ、弟に尋常でない執着を見せるアザリー、読者一同をおののかせるボルカンなど、昨今の風潮からすると大胆といえるアレンジが初っ端から繰り出される。
 「秋田禎信BOX」刊行以降、ドラマCDや3種のマンガ版、舞台版、テレビアニメといくつか商業展開されてきたが、いずれも細かな変更はあってもデザインにしろストーリーにしろ原作を踏襲しており、見ていて物足りなさがあった。再構成や大幅なアレンジを施したものが見たいと思っていたので、その点で満足感がある。
 ただ本作のアレンジは、整合性をつける、裏設定を拾う、以前の翻案作品由来の小物を散りばめる、といった方向性なので、欲を言えば新しい景色を広げてもらいたいところ。これは好みの問題であって、作品の瑕疵だとはむろん思わないが。


 原作はアザリーの変貌からスタートするのに対し、本作ではキリランシェロとアザリーがどのような関係なのか……というか、アザリーの人物像をまず提示している。「思えば俺も若かった」と「タフレムの震える夜」を混ぜているのは、のちにラッツベインが登場するからだと思われる。
 教室に戻っていろとキリランシェロに指示するチャイルドマンが冷たく見えるのは、あくまでキリランシェロからはそう見えているというだけで、先生本人はふつうに言っているだけなんじゃないかな。
 教室での座席の並びは、前列がレティシャとハーティア。中列がフォルテとコルゴン。最後列にコミクロン。草河遊哉のイラストではどうだったっけ。全員がローブ着用なのはちょっとだけ残念だ。
 チャイルドマンがアザリーに警告しているのは、バルトアンデルスの剣のことのみを指しているのか、それともアザリーはこの時点でほかにもなにかやっているのか。
 アザリーがバルトアンデルスの剣を用いた目的は精神士になることだとしたのは、のちの展開と合わせるためだろう。

 時は変わって5年後、トトカンタ。すべての原作読者を驚愕させた、通称・きれいなボルカン。
 原作通りの言動をさせると話がスムーズに進まないだろうし、余白を入れにくい構造のタテヨミコミックにおいてはいいアレンジだと思う。とは思うんだけれども、ボルカンが登場する都度「いいアレンジだよな、うん。……うん?」と困惑の感情がやや発生する。
 オーフェンオーフェンで、ボルカンの借金を勝手に払ったってどういうことなんだ。しかも恐ろしいことに、われらが主人公殿はそういうことをする人間なのかというと、そういう人間なんだよ。
 ボルカンの変更に伴い、結婚詐欺もふつうの(?)お見合いに。「親友を思って見つけてきた素晴らしい話」だそうだが、なにをどうしたらそんな素晴らしい話を見つけてこれるのか。
 本作でもエバーラスティン家の裏設定が健在であることを考えると、「チャイルドマンの弟子が結婚相手を探していると聞いてこれ幸いと乗っかった」とか辻褄はいくらでも合わせられる。合わせられるけれども、ボルカンがあまりにむちゃくちゃすぎるのでここは逆に筋が通っていてほしくない。
 というか、原作は「すでにスパイとして活動していたマリアベルが、垣間見たオーフェンを気にするようになった」前提だからまだしも、本作だと「なにも知らないまだ学生の次女が、家の目的のために差し出される」ニュアンスが出てきてしまうのでそれはそれでまずい話になる。
 本作は書体のせいなのかなんなのか、オノマトペがどうも間が抜けて見えてしまうことが多々ある。たとえばクリーオウ登場シーンの「シャラー」とか。
 令嬢然としていたクリーオウが、「面白そうだし!」の台詞と表情で一気にそれらしく。ところでめかしこんだオーフェンさん、かっちりした服装がなかなかお似合いで。


 様、という呼びかけにボニーを連想したが、「お師様」つまりすでに弟子入り済みのマジクであった。クリーオウよりも背が高く、同じくらいの年齢に見える。当然、3YA設定を連想してしまう。
 クリーオウと比べるとオーフェン、マジクのふたりは頭身が高く、というか縦に長い。なるほど縦オーフェンという通称はぴったりだ。
 エバーラスティン邸地下室の扉は、ドラゴン種族のレリーフがあしらわれている(原作ではダンテ「神曲」から取ったプレート)。今後の展開に合わせてということだろうか。
 本作のオーフェンは「我は」呪文をかっこいいと思っているそうで、チャイルドマンとは異なる呪文を採用しているのはコルゴンの真似をしたのかもしれない。
 スタジオディーン版製作に際し、秋田は「後継者」までストーリーに手を入れたと言っていたが、実際の映像では反映されているようには見えなかった。ひょっとして本作は、その手を入れたというバージョンが元になっているのでは、と勝手な想像。とはいえ本作に秋田がどの程度関わっているのかは不明なので、これは想像を通り越した妄想である。


 ブラックタイガーと海老云々のやりとりをばっさりカットしたのは、ボルカンと同様いちいち原作通りにやると話がつっかえて先に進まないからだろう。一方、鎌を振るうと魔術文字が展開され、原作読者への目配せが感じられる。
 チャイルドマンの白スーツは、沢田版由来かと思いきやつんくの衣装だとのこと。

 少し先の話で、「この手で君を守りたい」という台詞が出てきて「あ、愛がジャストでオンマイラブしておる……」と思ったら、まさか衣装までもとは。
 沢田版の、大見得を切って《牙の塔》を飛び出したはいいもののチャイルドマンに仕事を回してもらって糊口をしのぐオーフェンとか、覆面剥がしたら相手がハーティアで唖然とするシーンとかよかった、というこれは思い出話。
 本作でアザリーはしばしば弟の頭に手を乗せるしぐさをしており、このシーンでも真相の前振りとしてチャイルドマンは頭に手を乗せている。
 往時、わたしはオーフェンとクリーオウの間に恋愛要素を見出せなかったのだが、その理由のひとつはオーフェンがクリーオウの頭に手を乗せていたからだ。そういうふるまいは、わたしの目には相手を子ども扱いしているとか、悪くすると舐めているものに映っていた。恋愛要素というなら、「亡霊」での「オーフェンだって困るでしょ」「あざになったトコ見てくれるって約束したら、許してあげる」のほうがまだしも。でもこれは読んだとき作者どういうつもりなんだと思ったしいまでもちょっと思う。
 アザリーが本作でオーフェンの頭に手をやるのは、明確に支配の意味合いをこめて描かれている。


 大陸魔術士同盟に乙女の横顔のレリーフがあるだけで「オッ」となる、そうよあたいはチョロいオタク。「そういう風に戦えと習ったもんでね」も原作を意識させる(させすぎる?)台詞で、とするとクリーオウが飲んでいるのもメロンソーダに思えてくる。ちなみに原作で飲んでいるのはオレンジジュースだ。
 ラモニロックの台詞から当時読者を騒がせ、しかし秋田から「意味ないです」と言われてしまったマジクの緑色(翠色)の目。ここでは晴れてヴァンパイアの証とあいなった。戦闘のあと、目を冷やしているのが意味深長。


 個人的な好みとして、裏設定を反映させた描写やのちの展開から整合性をつけた描写などは原作読者をおもしろがらせはしても、それのみでは翻案作品を際立たせることに寄与しないと思っている。
 ので、クリーオウがついていく動機として「最初の話」を絡ませ、「置いてけぼりって辛いのよね」と心情を語らせるのはとてもいい描写だと感じた。
 あとこのくだり、状況を分析するドーチンがクレバー。


 ハーティアが謎の球体を出している姿にスタジオディーン版を想起した。
 スタジオディーン版でも舞台版でも共通する「構えを取ると手の先に魔術のエフェクトが浮かび上がる」という描写を本作も採用している。これはオマージュどうこうよりも読者への伝わりやすさを意図したものだろう。同じだからこそ、スタジオディーン版はダサいと感じ、舞台版や本作だとさほど感じないのはなぜなのかと、あらためて考えざるを得ない。


 おそらくすべての原作読者を驚愕させた変更その2、死なないコミクロン。
 本作のオーフェンは、誰かが死ぬことで丸く収まる結末を拒否する造形をしており、おそらくその一環としての変更なのだろう。コミクロンが生き残ったことで今後の展開にはさほど影響はない……いや、それともある?
 さて今度のコミクロンはおさげでも、短髪でもない。ステファニーのデザイン変更との兼ね合いだろうか。かつて連版が連載されていた折、コミクロン登場→オーフェンと対面で読者ざわつく→なぜか髪型差し替えでまたもや読者ざわつく→もしや「終端」口絵ですでに短髪……? という流れが懐かしく思い出される。
 髪型といえば、フォルテもだいぶすっきりした外見に変更されている。原作は男女問わず黒髪を長く伸ばした外見の人物が多いので、差別化のためと思われる。

 クリーオウに「助けてって言うべきだったのよ!」と核心を突かれ、思い直したオーフェンは「俺を助けてくれないか?」と素直に助力を求める。ハーティアに語った「誰も死んで欲しくない」という台詞もそうで、本作は原作がやっていることをストレートな描写で語り直しつつ、原作と違うことをやる、とある種の宣言めいた表現になっている。
 他人に頼ることを意識するのは第二部(東部編)以降のことで、原作では理念として意識しつつもなかなか他人に頼ることができない、というジレンマとして表出していた。他者と協力することは他者を利用すること、独力でこなすとは自らを犠牲に供すること、それらのせめぎあいは第二部から続く主要なテーマだ。
 本作ではオーフェンが自分からではなくクリーオウに言われたのをきっかけに(しかもそのクリーオウもボルカンの言葉に背中を押されている)、周囲に助力を求め、しかもそれが成功する。
 意欲的なアレンジだと感じたし、更に進めて原作とは別の切り口を示すものとなるのかを見てみたい。
 にしても、のちにオーフェンが「チャイルドマンも自分(キリランシェロ)の助けが欲しかったかもしれない」と思ったことを考えると、クリーオウの台詞は誰に対しても当てはまる台詞といえようか。発しても、届くかどうかは別として。

 本作は原作のイラストから構図を持ちこむコマ(といっていいのか)が何度かあり、「まあせいぜいやってみろよ/オーフェン?」は「ハーティアズチョイス」の挿絵から。
 翻案に際し、たとえばマンガのひとコマをそのままアニメの画面に持ってくるようなやりかたはあまり好みではない。これはわたしが「マンガのコマはページの中で設計されたもので、アニメの画面とは別種」と認識しているためだ。小説の挿絵とタテヨミマンガの場合だと、画面の比率のせいか違和感が少ないような気がする。

 原作において、ここでハーティアがオーフェンと呼んだ理由が実はいまもよくわかっていない。呼び名を変えたというだけなら、アザリーの死と共にかつての友人、ライバルへの感情にけじめをつけたとも取れる。しかしわざわざ演技力とも言っており、彼は最初から同窓生への感傷はけじめをつけていたのだと表明している。
 他方オーフェンのほうはハーティアの言葉がほとんど耳に入っておらず、この掛け違いのもたらす効果がいまもってうまく読み取れていない。
 本作ではオーフェンという呼びかけは、別れのニュアンスと共にハーティアがオーフェンの行動を尊重するほうに重きが置かれている。

 秋田ははじめ1巻完結のつもりで「我が呼び声に応えよ獣」を書いたという。担当編集から続きを書くようにと言われ、発展させていったのがこのシリーズだ。そのため後づけの部分がかなり多いそうだが、本作はクリーオウとマジクの出自を事態のキーになるものと位置づけ、かなり因縁めいたストーリーにしたててきた。
 また、ここで幻視を見たこととチャイルドマンの遺言を聞いたことでふたりそれぞれにオーフェンの旅に同行する理由を強化させている。
 過去に公園で起きたという爆発事故は、「最初の話」のことかと思った。しかし幻視の中のクリーオウは、マリアベルを見送った回想シーンよりもいくぶんか大きいような気がする。


 序盤の段階で、アザリーは弟を守ることに執着しそのためなら危険な行動もいとわないと示されていた。チャイルドマンと精神を入れ替えたのも、生き延びるための選択ではないという。「あなたも見たのでしょう?」というが、ではアザリーはどのタイミングでオーリオウルの幻視を目にしたのか。
 姉を説得しようとするオーフェンを評し「チャイルドマンの精神支配がここまで進んでいたとはね…」とアザリー。はじめはマインドセットをそう言い換えたのかと思ったが、オーフェンたち3人に幻視を見せたことを考えると、ひょっとして本作のチャイルドマンは白魔術を使えたりするんじゃないか? そこまで変更せずともネットワークを使えば幻視を見せることはできるので、考えすぎかもしれない。

 過去による試しを突破し、未来へ進む。他愛のない言い回しではあるが、チャイルドマン教室の面々はオーフェンのなにを試したのか。
 効果も発動条件もわからない指輪を、「婚約者に貰った」ものだから信じる。確かな証明のないもの、わからないものを信じることこそが本当に信じることだという秋田作品に通底するテーマを用いている。それと秋田作品の男女ってこういういちゃつきかた、つまり相手のいないところでベッタベタにベタな言い回しをするというのをやるよね。
 ところで原作だと、指輪をはめられないので飲みこんでいる。指輪の材質によってはあとあと身体に悪影響が出そうだ。

 バルトアンデルスの剣は「敵を思う通りの姿に変える剣」だという。アザリーが実験に失敗したのは他者ではなく自らの手で傷つけたから、とそんな理屈なのだろうか。
 原作のアザリーは、「獣」のあともオーフェンをコントロールしようとする。これはチャイルドマンを殺し、コミクロンを死に追いやった彼女にはもはや「かつてたったひとり、姉を救おうとした弟」しか残されていないからだとわたしは読んでいる。しかし、昔とはなにもかも変わった、とオーフェンに説きながら、ほかならぬ彼女自身がその弟も変わっていたことを「背約者」まで本当にはわかっていなかった。
 本作では先回りするように「婚約」という言葉から弟の成長を認めつつ、弟の幸せは自分が作ると宣言し、初志貫徹の気概がある。

 前述したように、出発に際しマジクとクリーオウは自分自身のことを知りたいという動機が新たにつけられている。ティシティニーとマリアベルは、クリーオウが“訊いても/答えずに/自分の目で確かめなさい”と送り出す……とご丁寧に秋田ワードてんこもり。
 他人を助けようとした行動から、自分自身についての疑問を呈される流れは、アザリーを助けようとして「オーフェン」になった主人公を踏まえてのものでもあるだろう。
 オーリオウルを「緑衣の女」と表現する、しかもわざわざ「王后・夫人の服」というのは秋田っぽく感じられ、秋田当人が関わっているのでは、とまたもやしょうもない妄想を繰り広げる。そんな表現が出てきたのは、天人種族がドラゴン種族の女王と称されていたからか。

 「一人旅ではない事を感謝しておこう」つまりはぐれ旅ではない、ということになる。本作がどんな結末を迎えるのかはわからないが、早くも「しょせんははぐれ旅だ」の台詞を思い浮かべてしまう。


 最後に、クリーオウが婚約者になったのは、正直「その手があったか」と感心した。原作でクリーオウという人物は、「一足飛びに答えにたどりつくが、言葉で説明するのは不得手」だと造形されている。マジクは対照的に「トライアンドエラーを繰り返し、模索しつづけた彷徨のはて答えにたどりつく」とでもいおうか。
 クリーオウは確たる意思はなく(つまり偶然)、あるいは必然といえるほど明確な目的を持つ前にオーフェンについていった結果、その行動が彼女自身に重い意味を持つようになっていった。シリーズが巻を重ねるごとにニュアンスは変遷していったわけだが、単にトレースするより動機づけを明確にし、受け手へのフックとするのは理にかなっている。
 それに、「目にしたものを、自分自身に関わることを確かめたい」というのは、クリーオウという人間に肉薄する動機ではなかろうか。
 婚約者というフレーズは「原作から陳腐なものになった」ではなく、「原作をうまく換骨奪胎した」と受け止めている。